2012年02月07日

DVD『田原総一郎の遺言 〜永田洋子と連合赤軍〜』

田原総一郎のテレビ東京時代のドキュメンタリーを見直しつつ、ゲストを呼んで当時を振り返るというシリーズ。司会は、田原総一郎と浅草キッドの水道橋博士。『田原総一郎の遺言 〜永田洋子と連合赤軍〜』というタイトルに惹かれて入手したしだい。この回は、ゲストとして、連合赤軍を描いた『レッド』を連載中の山本直樹、元連合赤軍兵士の植垣康博が登場する。

取り上げた番組は「永田洋子 その愛 その革命 その…」というタイトルで、事件翌年の1973年に放映されたもの。内容は、ニュース映像で事件の概要を振り返ったあと、獄中の永田洋子と書簡を交わした田中美津(ウーマンリブの活動家で連合赤軍との接点もあった)が、永田洋子からの手紙を朗読し、田原の質問に答えるという構成。若々しい田原の姿が印象的なのだが、相手を困らせるような質問を畳み掛けて本音を引き出すというか、失言を誘うというか、そういうあざといやり方が、いまと全然変わってないのも面白い。

田中美津は連赤関係の本にときどき名前が出てくるので、どういう人かと思っていたが、映像でみる1973年の彼女は、ボーイッシュで、かつ活動家らしいエネルギーを感じさせる人物だった。言葉がとても観念的なのは、時代というものだろうか。それがまったく現実から遊離しているとは思わないけれども、簡単なことを観念的に難しく言い表していくことの弊害は、小さくなかったのではないかという気がする。それとも、社会運動にはそういう言葉が必要なのだろうか。これはウーマンリブに限らず新左翼運動にも同じことが言えるのかもしれない。


田原総一郎は、くだんの番組を作る際に獄中の永田洋子に会って番組のことを話したそうだ。当時、山岳アジトでの”総括”という名のリンチ事件が明らかになって以降、リーダーの一人である永田は、人でなし、異常者、というふうに世間一般からは見られていた。その空気のなかで「永田洋子 その愛 その革命 その…」というタイトルの番組を作った田原総一郎の腹の座りようは見上げたものだと思う。会社をクビになる覚悟であったそうな。

永田洋子は昨年の2月5日に獄死した。ほぼ一年前。それでも連赤事件が投げかける問題は、日本人にとっていつまでも古びないという気がする。番組中、山本直樹は、連赤事件を、言葉(観念)が一人歩きしてしまったことによる悲劇であると捉え、このようなことは規模や形は違うにしろ、それ以前もあったし、それ以降もあったし、これからも繰り返されていくことだと述べていた。そして、繰り返されているのに自分たちはそれを忘れてしまい、また繰り返してしまうと。繰り返さないためには、永田洋子や連赤事件が放つ黒い光を折に触れて顧みる必要があるのかもしれない。
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2011年05月30日

革命的オリーブ少女



本人が考えたアジテーションだろうか。聞いていて「異議なし!」とか言ってしまいそうになる方もいらっしゃるのでは。
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2011年03月09日

『レッド』第5巻

読了。会ったことのある人物が出てくる漫画を読む不思議。当人には、もっと不思議な感じがするのだろうか。巻末に、登場人物「恵那」との(実際は恵那のモデルである人物)と作者との対談を収録。こういうのは面白いので、次巻以降も続けてもらいたい。

作者の山本直樹って、道南の出身で函館中部高を出ている人なんだな。僕はワンランク下の学校だけれど、1歳しか違わないので、もしかしたら共通の知人もいるかもしれないな。
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2011年02月06日

十七の墓標

永田洋子が5日、東京拘置所内で死亡したとのこと。65歳。聞くところによると、ここ数年は寝たきりで、面会者との意思疎通も成立しないことが多かったらしい。彼女の著書を読む限りでは、病気に対して適切で十分な治療が受けられていたかどうか疑問で、これは形を変えた死刑だったのではないかという印象を受ける。
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2009年07月19日

「証言」読者交流会

連合赤軍事件の全体像を残す会の発行する冊子「証言」の読者交流会に参加してきた。誘いをいただいた際は正直なところ若干の躊躇も覚えたのだが、元連赤メンバーの方々や読者の方々と意見交換ができ、居酒屋に移動しての二次会ではさらに突っ込んだ話もうかがうことができ、貴重な経験ができたと思う。

元メンバーは、皆さん知的で穏やかな方々であった。が、かつては信じる理想のために家族を捨て、人生をかけ、命を投げ出す覚悟をした人たちだ。そのような経験があるからか、それぞれが芯の強さを感じさせた。僕からの難しい質問にも誠実に答えてくださった。
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2009年03月18日

再び『赤-P』について

『赤軍-P.F.L.P 世界戦争宣言』は党派のプロパガンダ映画ではあるものの、それを超えての意味があるということを補足しなければならないと思う。それは、この映画が、情報の圧倒的な不均衡に対して報いられた一矢であるということだ。

多くの日本人にとっては、パレスチナのイメージは長らく「凶悪なテロリスト」、さもなくば何かよくわからない「難民たち」というものでなかっただろうか。自分たち日本人にとって縁遠い、内面の推し量りがたい、そしてどちらかといえば敵側であるような存在。それは国内外のさまざまなメディアを通じて醸成されてきたものだろう。いうまでもなく、そこにはパレスチナ側からの視点はほとんどなく、米国やイスラエルの視点による報道が圧倒的に多かったはずだ(その不均衡は現在どれだけ改善されただろうか)。

そういう中で『赤-P』が作られ、公開された。この作品により、日本人はパレスチナの人々の日常の一端を初めて知ることになる。ゲリラの男たちばかりでなく、子供たちの笑顔、洗濯物を干す女性、パレスチナ解放のために闘う人たちの肉声に触れることになる。

赤軍やP.F.L.Pの主張に共感するかどうかは別として、情報の圧倒的不均衡に対して報いられた一矢という本作の意義を考えれば、映像や編集のクオリティという問題は表層的なことだよなあと思うしだい。
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2009年03月17日

映画『赤軍-P.F.L.P 世界戦争宣言』

『実録・連合赤軍』を撮った若松孝二監督が1971年に作った、赤軍とP.F.L.P(パレスチナ解放人民戦線)のプロパガンダ映画。通称「赤-P」。当時、赤く塗ったバスに乗った上映隊が日本全国を回ってこの映画の上映会を繰り広げた。そのスタッフには、連合赤軍事件で亡くなる遠山美枝子もいたという。

内容のほうはまさにプロパガンダで、パレスチナの風景や難民の日常、ゲリラの日常の映像に、赤軍派戦士やP.F.L.P戦士によるアピールの音声が重ねられ、ときおり「インターナショナル」の歌が挿入されるというもの。最後のほうに、重信房子の映像とメッセージ、P.F.L.Pから日本の革命党派へのメッセージなどが入る。途中、赤軍派と革命左派の合同集会、つまり連合赤軍結成の記念集会の映像も少し入る。

赤軍派によるアピールはいずれも、例の生硬で抽象的なアジテーションで、意味がよくわからない。当時の学生たちにはわかっていたのだろうか。

ともあれ、当時のパレスチナや赤軍派の中の空気のようなものは伝わってくる貴重な映像だとは思う。

ただ、映像作品の作りとしてはかなり粗雑。驚いたことに、途中に「カット!」など編集作業時のものと思われるスタッフの声がはっきり入り込んでいる。同じナレーションが2度入っているところもあった。すでにピンク映画を多数撮っていた経験豊富な若松監督が関わっているとは思えない仕上がり。たぶん、誰もきちんとチェックしてないのだろう。そういう粗雑さも含めて、当時の空気を伝える作品になっているということも言えるかもしれないが。
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2009年02月14日

『ゲバラ日記』

『ゲバラ日記』表紙
高田馬場の古本屋で買った本。エルネスト・チェ・ゲバラ著、朝日新聞外報部訳。昭和43年(1968年)7月31日刊行。

ゲバラのボリビアでのゲリラ活動の日々を綴ったもので、先日観た映画『チェ 28歳の革命』、『チェ 39歳別れの手紙』のうち、後者で描かれた期間に該当する。映画を観る前に読んでおきたかったのだが、順序は逆になった。しかし、これでよかったように思う。映画のほうはだいぶハショッテあるわけだが、映画を観ておくことで日記に登場する人物や山中のようすがわかり、映画で描かれていない場面についてもイメージしやすかった。

日記の最初の日付は1966年11月7日で最後は1967年10月7日。その翌日の戦闘でゲバラは政府軍に捕らえられ、明くる10月9日に射殺される。その翌年にはこの本が出ているわけだから、ずいぶんと早いものだという気がする。のちに出獄しフランスのミッテラン政権の特別外交顧問になるレジス・ドブレ(本書ではレジ・ドブレ)についても、服役中という注釈がついている。出版が早かったのは、それだけ世界的に関心を集めた出来事だったということだろう。

原著はキューバの国立出版協会から出ており、カストロが雄弁な筆致の序文を寄せている。それによるとゲバラは射殺をためらう政府軍兵士に向かって「撃て、恐れるな」と言ったという。その場面は映画でも描かれていた。

日記の内容だが、過酷なゲリラ活動の中で書かれたとは思えないほど緻密で生き生きとしている。どこをどう移動し、何をし、何を食べ、誰と会い、どういう指示を出し、どう闘ったか、また、内部でどういういさかいがあり、どう解決したか、そういうことが簡潔に描写されている。ときには情勢の分析、今後の展望なども記されて、月末にはその月の活動が箇条書きに整理されている。カストロの序文に、休憩のたびにゲバラがノートを取り出して記録を取る姿が回想されている。記録者としても素晴らしい素質を持った人間だったのだろう。

軍事指導者として、また政治家として、非常に有能だったでだろうことは、日記のそこかしこから感じられる。政府軍との戦闘を何度も行っているのだが、そのほとんどで勝利している。しかし最終的にはゲリラ組織は壊滅してしまうので、根本の部分で無理があったということはいえるだろう。日記に何度も記されているが、農民たちの積極的支持を得ることができなかったことが最大の敗因だろう。そのため兵士の補充、兵力拡大ができず、先細っていってしまうことになる。キューバとは客観的情勢が違いすぎたということだろう。

山岳に潜伏しての活動ということで、ゲバラのほんの数年後の連合赤軍にも連想が及ぶ。穴を掘って武器を隠したり道を切り開いたり、猟師に見られて移動をしたりと、ある面では同じようなことをしているのだ。しかし全体としては全く違う。連合赤軍のほうは山岳ゲリラではなくて、固定された根拠地(ベース)を作ろうとしたわけだし、方法論の違いもあるとは思うが、大人と子供、いやそれ以上の差があるように感じる。

もちろん、ゲバラは連赤のような「総括」はしない。彼が内部の問題にどのように対処していたかの例を、1967年2月26日の日記から引用してみよう。

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私はみんなが集まるのを待って話をした。われわれがロシタに向かって苦労している意味を説明し、今後の苦しみを思えば、今のような苦しい生活も序の口にすぎないこと、規律を守らなければ二人のキューバ人の間におこったこのようなみっともない事件がまたおこるだろうといってきかせた。私はマルコスの態度を責め、パチョには、もう一度、こういうトラブルを起こしたらゲリラから除名する不名誉を与えることを明らかにした。(中略)
私はボリビア人に対しても、信念がぐらついたら、回りくどい手段に頼らず、はっきり私にいってくれ、いつでもゲリラを離れるのは自由だと述べた。
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もし革命組織があって、そこにリーダーがいるのだとすれば、こういうふうであるべきだろうと思う。

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2009年01月30日

映画『チェ 28歳の革命』

キューバ革命の英雄チェ・ゲバラの伝記的映画。メキシコでのカストロとの出会いからキューバ革命の勝利までの苦難の道のりを描いている。1本の独立した作品ではなく、明日31日からロードショーが始まる『チェ 39歳別れの手紙』の前編である。

ゲバラを描いているのだが、この前編についていうならば、「キューバ革命」がもう一人の主人公といえるのではないか。カストロを始めとする革命家たちの素顔、武力闘争の実際、組織の運営、農民・市民たちとの関係など、いわば革命闘争の日常が、現実感・臨場感をもって迫ってくる。ゲバラ本人のようだという評判のベニチオ・デル・トロの演技の魅力もあり、大いに引き込まれた。

ところで、武力闘争によって革命を達成した事例としてのキューバ革命が彼の地にあり、武力闘争によって自らの首を絞めるかのようにして敗北した連合赤軍事件がこの地にあるわけだが、その違いというものを、連赤事件にはまり込んできた者としては思わざるを得ない。

彼の地には、圧倒的貧困、抜き差しならない社会矛盾、そういったものがあって、それが革命運動を支える巨大なエネルギーとして作用したに違いない。日本にはそれがなかった。そのことを、連合赤軍の「革命家」たちは見誤ったのだろうと思う。

山岳でのゲリラ活動のなかで、指揮官の名を騙って農民から金を取り、娘を犯す、といったことをした者たちをゲバラが銃殺する場面がある。連合赤軍の山岳ベースでの同志殺害をすぐにも連想させる場面なのだが、しかし、連赤のそれは何一つ前向きの意味をもたない、「総括」「共産主義化」の名を借りた粛清であった。本当の武力革命の過程での処罰としての刑とは質的にはっきりと異なると思われる。

映画のなかでゲバラが、革命の過程を振り返って、そこに狂気が介在していると述べる場面がある。あまりに無謀な行動が革命の過程のいくつかの場面で存在していて、それは狂気なしに説明できないというのだ。おそらくは、革命などというのは、一種の狂気なしにはなしえないものなのだろう。その狂気については、連合赤軍にも共有されているように思う。しかし、その狂気が有効な力を持つのは、状況を冷静に見極める圧倒的正気があってこそなのだろうとも思う。いや、それがあったとしてもこの日本で連合赤軍が望んだような暴力革命がありえたわけではないだろうけども。
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2009年01月27日

ミニスカートの田中美津

連合赤軍の本にときどき名前の出てくる元ウーマンリブの活動家・田中美津が今日の朝日(夕刊)に出ていた。いま鍼灸師をしているのだな、この人。

連合赤軍事件について問われてこう応えている。
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 知っていた人間が殺されたということが重かった。
 あの事件が起きる前の年、突然、事務所に永田洋子から連絡があって、山岳基地を見に来ないかと誘われた。ミーハーなんで、女の革命家って見たことがなかったから、山の中まで行ったわけですよ、間違っても革命的な人間だと思われないよう、ミニスカートをはいて。赤軍と一緒になる前で、彼らは「京浜安保共闘」と名乗っていました。
 そこにいたのは、まじめで地味な青年たち。永田の隣には妊娠していた女性もいて、後で、「あのおなかの子に対して自分も責任があったんじゃないか」という思いから、長いこと逃げられなかった。
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朝日新聞夕刊2009.1.27「人生の贈りもの」より

妊娠していた女性というのは金子みちよだろうか。
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2009年01月20日

大槻節子著『連合赤軍女性兵士の日記「優しさをください」』

横浜国大の学生で革命左派の活動家であった女性の、1968年12月13日に始まり1971年4月4日で終わる日記。

組織(連合赤軍に合流前の革命左派)の一員としての活動と個人の生活、理想と現実、その狭間で悩み苦しむ葛藤の日々が赤裸々に綴られている。恋人(相手も同じ党派の人間)への愛、高校時代に父が亡くなったあと家族を支えてきた母への思いも繰り返し語られている。要するに、ここにあるのは、1970年頃の、ごく普通の、誠実に生きることを望む、まじめな女子学生の「疾風怒濤の時代」の姿。

革命左派の上赤塚交番襲撃事件(1970年12月)、真岡銃砲店襲撃事件(1971年2月)を経て、彼女自身も潜伏生活を余儀なくされ、日記の記述は沈鬱に、また死の予感の漂うものとなっていく。日記の途絶えた4月から約10カ月後、連合赤軍の兵士として山岳ベースに参集した彼女は23歳で「総括」により亡くなる。
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2009年01月15日

日テレ「東大落城 安田講堂36時間の攻防戦」

安田講堂の攻防戦からちょうど40年ということで制作された番組。つい見てしまった。警察側、学生側の両方が描かれており、わりと公平な内容ではなかったか。どちらの側にも、そうせざるを得ない立場というものがあったのだろうけれど、見ていて悲しくてしかたなかった。暴力はすべて悲しいものだ。

それでもまだこの攻防には牧歌的なところもあった。学生側に怪我人が出た際、学生側が休戦を申し入れ、警察側もそれを受け入れ、怪我人の搬出を行うという一幕があったそうだ。しかし、この1969年のできごとを経て、より過激な武装闘争を標榜する赤軍派や革命左派が生まれ、1972年には連合赤軍事件が起きることとなる。そのあとは、凄惨な内ゲバ、爆弾テロの時代。

それにしても、40年前の出来事ということは、まだ存命の当事者は大勢いるとしても、すでに歴史上のことということになるなあ。

ところで、警察側官僚を演じていた金子賢だが、アップの際、彼の耳にピアスの穴が二つあるのがわかった。いいのか?金子!
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2009年01月05日

連合赤軍事件の全体像を残す会編『証言』

「連合赤軍事件の全体像を残す会」というグループが、事件のさまざまな記録を残す活動をしている。当事者・関係者のインタビューや座談会、犠牲者追悼の会、山岳ベースや仮埋葬地の跡地を巡る旅、そういった活動の記録が『証言』というA5判70ページほどの冊子にまとめられ、現在、第6号まで発行が行われている。その1、2、5号を購入したのだが、事件後三十数年を経てなおいまも事件に真摯に向き合う関係者の姿に感銘を受け、残りの号についてもすぐに購入を決めた(1冊1000円)。

連赤事件を考えたときにいつも思うのは、それは現代史上の出来事でありながら、まだ終わっていないということだ。『証言』を読んで、改めてそのことを感じる。終わっていないからこそ、昨年『実録・連合赤軍』という映画が作られたともいえる。当事者、関係者にとっては、生涯をかけての贖罪と総括ということがある。当事者の幾人かには子どももあり、その子たちも30代の社会人となっていて、彼らがどう事件を受け止め乗り越えるかという個人的な課題もある。社会にとっては、連合赤軍が命がけで理想を求める動機となった現実社会のさまざまな問題や矛盾がいまだに解決されていないということがある(例としては、まさにいまイスラエルが行っているパレスチナ侵攻を示せば十分ではないだろうか)。いまの時代に連合赤軍事件を顧みることは、意味のあることと思う。

『証言』を入手ご希望の方は、下記まで連絡されたし。
 連合赤軍事件の全体像を残す会
 yukino@media-if.co.jp


『証言』のバックナンバーは以下のとおり。

1 大菩薩峠への道――八木建彦赤軍派を語る
 書評 加藤倫教『連合赤軍少年A』

2 彼らはいかに生きたか――連合赤軍殉難者追悼の会の記録
 書評 大江健三郎『河馬に噛まれる』

3 獄中指導者――塩見孝也の証言
 書評 塩見孝也『赤軍派始末記』

4 毛沢東派の潮流――豊浦清の証言
 書評 塩見孝也『監獄記』

5 25年目に跡地を巡る
 書評 円地文子『食卓のない家』

6 東大闘争を突き抜けた先に――川島宏の証言
 書評 桐山襲『スターバト・マーテル』
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2008年12月28日

『連合赤軍事件を読む年表』

事件から30年後となる2002年に発行された本。年表形式で終戦後から発行時点までの連合赤軍関係の出来事をまとめたもの。大きい出来事ばかりでなく、関係者の著書からピックアップした記述が多数盛り込まれている。いつ何があったか、関係者がどういうことを考え、どういう気持ちでいたかを簡便に知るための資料としてよさげ。

巻末に植垣康弘氏のインタビュー。事件後に起こった、総括をめぐっての論争について、氏は次のように語っている。
「マスコミや裁判だけでなく、塩見孝也さんが典型だけれども、党派も指導者個人の資質に問題を還元しようとします。「党派の路線は間違っていなかったけれど、やった人間が悪かった」ということです。それに対し僕は、「党派の論理、党派の思想が問われているんだ」と反論していきました。」

総括要求については、新入社員教育を例にして説明し、「このようにして、純粋党派人間や会社人間ができていくのだと思いますが、連赤の場合は、その過程において暴力が発言したわけです。党の方針に反対したから殺すというような粛清とは違います。」と述べている。先に紹介した映画パンフでの吉野氏による総括とはまた違う見かたとなっている。

その暴力の導入については、こう述べている。
「総括に最初に持ち込まれた「援助」としての暴力は、左翼の論理ではありませんでした。森さんの論理はこうです。殴って気絶させる、そしてそこから目覚めると新しい自分になることができる。これは運動部の論理でしょ。森さんは剣道部の主将をしていたこともあったしね。「運動部」と言って悪ければ、きわめて日本的な論理です。こうも言えるでしょう。過酷な状況に追い込んでいって、そこから総括していけるかどうかという論理は、オウム真理教の修行の論理と同じなんです。」

ただ、結果的に総括対象者はことごとく死んでいっているわけだし、冬山で屋外にしばりつけるなどしたら死ぬのが当然なわけだから、総括を援助するとか共産主義化した兵士を作るとかいうのは名目的論理に過ぎないように聞える。永田洋子にすれば、殺すつもりではなかったということになるのだろうが……。
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『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

映画パンフなのだが、年表、映画に登場する重信房子氏や前沢虎義氏を含む関係者や識者の寄稿、多数のスチール写真を配した撮影日誌、映画台本、2007年にロフトプラスワンで開催された植垣・塩見・若松監督らのトークバトルなど200ページを超えるボリュームで、これ自体が連合赤軍の資料となっている。

なかでも、映画で吉野雅邦を演じた俳優が獄中の吉野氏に送った手紙の返信として書かれた、吉野氏による事件の総括は、貴重な資料といえるだろう。先に紹介した『情況』で塩見氏がこの手紙を「もっとも信頼に値する」「30数年後の現在、事実関係として、集大成された、もっとも精確な文献で、資料価値が最高に高い」と激賞している。

ちなみの、その手紙で吉野氏は、山岳ベースでの暴力的総括は「対内的分派闘争の色合いを濃く有する」もので「獄中指導者らの傾向を帯びた内部異端分子との闘争」だったとしています。「銃による殲滅戦」に向けた兵士の「共産主義化」といった話は、「暴力行使を肯定するための理由付け」であり、吉野氏自身にとっても「疑念を抑え込み、抵抗感情を封じ込めるため、自らに無理に言い聞かせる類の論理に他ならなかった」と書いている。
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2008年12月27日

『情況』2008年6月号 緊急特集:『実録・連合赤軍』をめぐって

アマゾンで購入できなかったので古書店に注文。アマゾンの迅速さに慣れたものには新鮮といってよいほどのゆっくりした対応で、やっとこさ届く。しかし、入手に手間をかけた甲斐のある充実した内容であった。

これまでも著書で連赤を語っている加藤倫教、植垣康弘ばかりでなく、他のブント活動家、赤軍派活動家、革命左派(京浜安保共闘)の活動家の証言も多く掲載されているのだ。そこには、労働運動の現場での坂口弘や永田洋子の有能な姿や、人望が厚くオルガナイザーとして才能を示していた森恒夫の姿なども描かれている。もちろん連合赤軍以前の話である。

『映画芸術』発行人の荒井晴彦と足立正生の対談(実際は、編集人も含めた鼎談)には興味深い話もあった。後に『永田洋子さんへの手紙』という本になる坂東國男の手紙についての話だ。そこには、「森は方針を出す度に自分の顔を見て「いいのか?」というような表情をする」「抑えられなかったのは森と自分の責任であり、実は森も自信がなかった」と書かれているそうだ。これを語る編集人によると『永田洋子さんへの手紙』ではそこは省かれているという。つまり坂東國男がストップをかけていれば、粛清は止められたかもしれないということ。

同じ鼎談で、あさま山荘の管理人の女性の話も出てくる。「この女性は九州の農協で二度公金横領が発覚して裁かれそうになるが示談か何かで事が済んでいる。横領した金はいつも妻子持ちの男に貢いでいて、最後には駆け落ちして、あさま山荘に住み着いていた。だから、連赤の五人が侵入してきた時、彼女はとっさに警察が自分を逮捕に来たと思ったらしい。」というのだ。警察だと思った、という話などは「本当かいな」と思うのだが、このエピソードで腑に落ちたことがある。映画でも坂口弘の本でも出ていたが、あさま山荘で坂口弘が、中立でいることを女性に要請したとき、女性は「裁判になったときに自分を呼ばないでほしい」という条件を出すのだ。その点が不思議だった。強盗のように押し入られたような状況で、裁判の話を持ち出すというのはずいぶん冷静なんだなと思ったのだが、前記のような「過去」があるのであればそれは自然な反応として説明がつくのではなかろうか。

革命左派の合法組織で活動し、山岳ベースにも参加しかけた(が体調不良のため移動途中で小田急線を降りたために命拾いをした)京谷明子のインタビューは、革命左派の雰囲気が伝わってくる貴重な証言になっているのだが、そこでとくに印象に残るのは、山岳ベースで誰が殺され誰が生き残ったかについての感想。革命左派のメンバーについて熟知している彼女は、「死体が発見されたと知って殺されたんだと分かった時、うまく言えないんだけど、殺された人と殺されなかった人の区別というのが、きれいに一目瞭然のように分かった。」「要するに、自分の意見を言いそうな人たちが殺されていた。寺岡恒一君だったら自分の意見を絶対言いますからね。金子みちよさんも、大槻節子さんもそうだし。」つまり、京谷明子から見ると、殺されたのはたまたまではなく、反抗的分子として指導部が選んだからということになる。

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2008年12月19日

『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』再び

昨日は盛りだくさんの一日だった。締め切りを過ぎてしまっていたものがあったので未明午前3時まで仕事をして何とか終わらせ、3時間弱の睡眠で蒲田へ。そこで夕方まで別件のマニュアルのレビュー会。その足で久しぶりの池袋へ移動し、新文芸坐に。ここで、この春に観た『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を再び観た。

この上映は、新文芸坐8周年記念の「野上照代が選んだ14作品」の一環で行われたもの。この日の最終上映の前には野上照代と若松孝二監督、そして映画で坂東國男を演じた大西信満によるトークショーも催された。

さて、約半年ぶりにこの映画を観た感想を。まず思うのは、物語の筋も、セリフの意味も、シーンの意味も、以前よりもだいぶよく理解できたということ。前回は事件についてのごくごく一般的な知識しかなかったわけだが、この半年間にずいぶんと当事者や関係者の本を読み、それぞれに視点に寄りそうようにして事件の経過を何度もたどりなおしてきたわけだから、当然といえば当然だろう。

そして悲しみ。人の本を読むということは、多かれ少なかれその人に「寄りそう」ことのように僕は感じる。そういう意味で僕はこの半年間に坂口弘、永田洋子、吉野雅邦、坂東國男、加藤倫教、植垣康弘といった人たちの本を読み、彼らを身近な存在と感じるようになった。その彼らが革命の理想に命をかけ、命をかけたがゆえに暴走し、破滅する姿をスクリーン上に見るわけだ。これは悲しい。

逮捕後1年で自殺した森恒夫はもとより、獄中にある坂口弘も永田洋子も吉野雅邦も、この映画を観ることはできない。彼らに見せてやりたいと思うのは僕だけではないだろう。

ともあれ、よくこの映画を撮ってくれたと思う。



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2008年12月16日

佐木隆三著『なぜ家族は殺し合ったのか』

1996年から1998年にかけて7人の人が犠牲となった小倉の一家連続殺人事件について述べたノンフィクション。犠牲者の数の多さもさることながら、犠牲者のうち6人が犯人の親族であったという点で異様さの際立つ事件として多くの方が記憶しているのではないだろうか。

犯人は松永太と緒方純子。松永は巧みな弁舌と暴力を組み合わせて緒方を蟻地獄に引きずり込むかのように取り込み、逆らえないようマインドコントロールを施し、やがて緒方の家族をも巻き込んで、自分の手を汚すことなく緒方の親、妹、姪、甥などを殺害させるに至る。

じつは、連合赤軍事件を理解するうえで参考になるかもしれないと思って読んでみたしだいだ。曲がりなりにも革命を目指す過程で起きた連合赤軍事件と、金の収奪が背景にあるこの殺人事件を並べて考えることは、連合赤軍関係者には受け入れがたいことかもしれないが、殺害の経過を見る限り相当の類似点があるのだ。

・論理構成力に優れたリーダー
・リーダーの思惑一つでなんでも決められる人間関係
・立たせておく・食事を与えないなどの拷問的暴力
・機会があっても逃げていない人もいた
・死体の処理は支配される側の人間が分担

閉ざされた人間関係のなかで支配する側とされる側の支配関係にハマりこんでしまうと、人間は人を殺害することさえやれてしまう。それがここでも証明されているように思う。
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2008年12月15日

高橋檀著『語られざる連合赤軍』

著者・高橋檀(まゆみ)氏は、坂口弘氏の支援組織である「坂口菊枝さんを支える会」を始めた人で、その会報「しるし」の編集人。坂口弘の『坂口弘 歌稿』も編集している。彼女は赤軍派や革命左派の関係者でもなければ、坂口氏の知人でもない、ごくふつうの主婦だったのだが、カソリック信者であったことから、カソリック信者の弁護士から支援の要請があったときに手をあげ、永田洋子さんや坂口弘氏の支援活動に関わるようになったという。

本書はその高橋氏が支援者としての立場で、連合赤軍事件と、メンバー逮捕後の裁判の経過や支援のようすなどを綴ったものである。本書前半を占める事件の経緯の説明部分は、他の関係書籍で既知のものではあるが、後半の内容は、獄中にある連赤メンバーの人となりなど支援者ならでは見聞による情報が含まれ、僕としては発見がいくつかあった。2002年の刊行なので、獄中の人たちについての比較的新しい情報も含まれ、そういう点でも価値があると感じた。

たとえば、こんなエピソードが紹介されている。
裁判闘争のなかで孤立した永田さんは、赤軍派から連赤に参加した植垣康弘氏と共闘するというか、植垣氏によって裁判闘争の面でも精神面でも支えてもらうことになる。そんななか、何をしてほしいかを永支援者が尋ねたところ、「永田は、植垣の身の回りの世話をしてあげたいと答え」たという。そこで支援者は、植垣氏の使用済みの下着を拘置所から受け取り、それを永田さんに差し入れる。永田さんはそれを洗濯し、ほころびがあれば繕い、支援者に渡す。支援者はそれを植垣に差し入れる、ということをしていたというのだ。夫や恋人に尽くす一途な女性、といった姿ではなかろうか。

植垣氏のほうは、恋愛感情というよりは、誰かが支えなければならないという思いから永田さんを支援しようとしていたようだ。植垣の大学時代の友人である井村幸司氏が獄中の植垣の面会にいくと、植垣氏は、自分のことはいいから支援者のない永田洋子のほうに行ってくれと頼む。これをきっかけに井村氏は永田さんの支援者となり、永田さんを支え続け、刑確定の直前には永田さんとの婚姻届を出して法律上の夫婦となったという。この人物のことは、永田さんの『獄中からの手紙』にも何度も出てきていた。

死刑囚と支援者が結婚するという話はときどき耳にするが、そこには、死刑囚になると限られた親族しか面会できなくなるという法律上の事情があるようだ。支援を続けるには、夫婦となっていることが好都合なのだろう。もちろん、両者の間に愛情が育まれた結果としての獄中婚ということもあるだろう。いや、何か愛情がなければ、支援し続けることや、形式的にであれ結婚することはできないだろうから、獄中婚を単に都合上の理由で片づけるのは正しくないだろうけども。

死刑囚と結婚までするのはいいかえるならば人生をかけることでもあるだろう。そうまでして支援する人がいるということには正直驚かされるし、ある意味では感銘も受ける。

上記の井村氏だが、本書刊行時の情報ではあるが「ほとんど毎日、永田と面会するために東京拘置所に出掛け」ているという。それにより「死刑確定囚としての永田洋子の日常は、この上なく平穏に過ぎているようです。井村の穏やかさ支えられて永田の感性と性格は、独房の過酷な環境の中でもあまり変わることなく、今でも天真爛漫に発揮されているようです」と著者は述べている。見ようによっては、永田さんは何人もの男性に、つき従っては捨てられ、ということを繰り返してきたわけだが、死刑確定囚という立場になってはじめて男性との揺るぎない関係を築くことができたといえるかもしれない。皮肉なことではあるが。

著者は、坂口氏について、関わりが難しいとし、彼の性格について次のように評している。
・人と付き合うときに、相手に限りなく合わせる
・相手との距離をうまくとることができない
・物事や状況に過剰な反応をする

そのような坂口氏の性格を見極めたとき、著者は「連合赤軍事件の全体で、坂口が果たした役割を瞬時に理解」できたと感じたそうだ。

その坂口氏の母、菊枝さんは、今年(2008年)9月17日に93歳で亡くなっている。本書によれば、月に一度、往復に5時間かけて東京拘置所に面会に通っていたという。「坂口が人間的な会話をかわすことができるのはこの時だけ、月に一度、30分間だけ」とあるのだが、菊枝さん亡きあと、坂口氏と社会との接点は途切れてしまったままなのだろうか。永田さんの本でも感じたことだが、死刑囚を完全に社会から切り離してしまう現在の処遇のあり方には、大いに疑問を覚える。


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2008年12月10日

永田洋子著『獄中からの手紙』

1993年の最高裁での死刑判決前後の文章を集めたもの。
獄中での病状日誌、坂東国男の『永田洋子さんへの手紙』への返事、獄中者への医療の問題と尿療法、亡くなった弁護士の思い出、高橋和巳の「内ゲバの論理はこえられるか」を足場とした議論、といった内容からなる。

本書で印象に残るのは、連合赤軍云々より、死刑囚として生きつつすさまじい闘病を続ける著者の姿だ。闘病については『私生きてます』に1970年代中盤から1980年代前半にかけての脳腫瘍との闘いが描かれていて、曲折を経てやっとのことで1984年にシャント手術を受けることができ、一命を取りとめた経緯が記録されているわけだが、本書が扱っているのはその後の闘病についてである。

手術後、数か月で苦しい病状が再発を始めたという。それは頭痛、気持ち悪さ、目の不自由さなどだったが、90年になって激しいものとなる。シャント手術というのは、脳から腹部へと皮膚の下をパイプを通して脳脊髄液を逃がすというあくまでも応急処置的なものだ。腫瘍そのものは、そのまま残っている。病状の再発は、腫瘍のさらなる発達と考えるのが自然だが、東京拘置所は前回同様、なかなかきちんとした対応をしてくれない。あたかもそれは、緩慢な死刑を執行しようとしているかのようだ。

93年の死刑確定により、著者の置かれた状況はさらに過酷となる。死刑が確定すると、外部との手紙のやり取りや面会が大幅に制限され、原則的には家族としかやり取りできないようになるらしい。生物としての死刑の前に、社会的な死を強要されるということか。

有効な治療が受けられない著者は、支援者の勧めで尿療法を始める。自分の尿を飲むのだ。それが体調の向上に効果があるという。最初は相当の葛藤やためらいもあったものの、それなりの効果を実感しはじめてからは積極的に続けられるようになったようだ。

著者の病状の訴えに対する東京拘置所の対応は、大いに問題があると感じる。死刑囚とはいえ重い病状を放置することが許されるとは思えない。死刑なのだから何をされたっていい、ということにはならないだろう。

本の出版は1993年。それから15年後の現在、著者はどうしているのだろうか。今年(2008年10月)に、著者が危篤状態となっているという報道が流れた。最近は寝たきりの状態が続いている、という話も出ていた。それからさらに2カ月が経っているが、どういう状況なのだろうか。


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