2010年12月31日

アートについての覚え書き

美術にしろ音楽にしろ文学にしろ、アートというのは、自分自身や他者、あるいは世の中に対して真剣に向き合うことで生まれるものだと思うのだ。真剣に向き合うことで見えてくるものを、第三者に見える形にしたものがアート。言い換えると、アートというのは、その作家が真剣に生きた痕跡であり記録である。それに触れる者は、その作家の感性を通じて、あたらしい真実に出会う。この覚醒の感覚こそがアートに触れることの喜びではないだろうか。それが2010年の終わりに思うこと。
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2010年06月23日

世界報道写真展2010&「侍と私」

 渋谷での打ち合わせが早く終わったので、写真美術館で開催中の「世界報道写真展2010」と、ついでに同館の別フロアでやっている「侍と私 ポートレイトが語る初期写真」を見てきた。
 世界報道写真展2010は、世界報道写真コンテストの入選作を展示するもの。対象は昨年撮影された報道写真で、今回は世界128か国、5847人のカメラマンから寄せられた10万点以上のなかから選ばれた約200点が展示されている。
 弾圧を避ける夜の屋上から体制批判の叫びを街に響かせるイランの人たち、降ってくる白リン弾から逃げ惑うガザのパレスチナ人、パレスチナ人女性にワインをかけるユダヤ人男性、タリバンの攻撃で致命傷を負った兵士をそれを助けようとする仲間たち、麻薬組織の抗争の犠牲となり血を流して横たわるコロンビアの若者の死体、土に胴まで埋められ覆面をした男たちに石打の刑で殺されるソマリアの男性、イラク戦争で頭部の40%を失って帰還した兵士…、といった暴力の現場、暴力の犠牲者の写真がやはり強いインパクトを与えるのだが、そのほかにも、みずみずしい表情をのぞかせる自閉症児、イギリスの競馬場の豊かな人々、地下鉄の混雑に耐える日本の女性、といった世界に生きる人々の日常を切り取った作品や、動物、自然、スポーツなどをテーマにした作品もある。
 全体を通じて感じることは、当たり前のことではあるがこの世界にさまざまな現実があるということ。ニュースの言葉よりも、ときにはニュース映像よりも、1枚の報道写真がその現実を濃縮した形で切り取って生々しく提示するということがあるように思う。また、過酷な現実を写した作品内容に衝撃を受けながらも、それと同時に美しさを感じもするのだが、これは不謹慎なことだろうか。不謹慎であるかもしれないが、やはりその色、構図、精細な描写といったものがもつ美は確かにそこにあると思う。内容、題材は別として。
「侍と私」展は、幕末と明治の日本人の肖像写真(ポートレイト)を大量に展示したもの。不鮮明なものが多いのだが、幕末の遣欧使節団の侍たちがパリの写真スタジオで撮ったものなどは、非常に鮮明で、侍の生き生きとした表情も見られる。
 この展覧会を見ようと思ったのは、江戸時代や明治時代の日本人といまの日本人の顔はどれだけ違うのか違わないのかということを確かめたかったからだ。なんか違ってそうなイメージがあるのだが、実際に写真を見てみての印象としては、あまり変わってない。どの顔も、いまの日本にいてもおかしくないのばかりだ。ただ、昔の人は体のサイズに比べて顔が大きいということは言えそうだ。現代の日本人の体が大きくなったというべきか。
 面白かったのは、スライド上映されていた「京都大阪今様美人風俗」。明治時代の美人写真集といった感じのものなのだが、正直、美しいと感じる女性はあまりいないのだ。つまり、当時と現代とで、美人の基準が違ってきたということだろうと思う。いや、僕の美意識が変なだけかもしれないが。
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2010年04月17日

西宮正明 映像言語展「フィルム粒子とピクセルの共棲」

都内での打ち合わせが早く終わったので、その足で品川のキヤノンギャラリーS(キヤノンSタワー内)で開催中の『西宮正明 映像言語展「フィルム粒子とピクセルの共棲」』に行ってきた。

展示されているのは、銀塩カメラで撮影したフィルムをスキャナーでコンピューターに取り込み、大判インクジェットプリンタによって大きなキャンバスにプリントした作品群。

この処理により、何が起きるかというと、35mmの銀塩フィルムの画像をメートル単位のサイズに拡大することで、フィルムに記録された粒子が露わになる。その粒子は、デジタル処理における矩形のピクセルではなく、あくまでも銀塩フィルム上に残る粒子。粒子の見え方は、写真により、また拡大率により異なるのだが、いずれにしてもそれが写真にアナログな質感を画像にもたらす。デジタル処理によって露わになるアナログ性とでもいおうか。それが紙ではなくキャンバスにプリントされることで、いっそうアナログな、というかどこか絵画的な雰囲気を醸し出す。

使われているフィルムは1960年代に撮影されたものも含まれているという。数十年の時を経て、銀塩フィルムがデジタルのトンネルをくぐって、純アナログでもない純デジタルでもない表現を作り上げる。これが「フィルム粒子とピクセルの共棲」という言葉の意味と解釈した。

それにしても品川の東側(海側)はずいぶん変わったものだなあ(といっても、昔のようすが思い出せない。あっち側に行くことなどなかったのか)。JRの駅からキヤノンがあるあたりまでの景観は、なんだか数十年くらい先の未来世界のようで、向こうから歩いてくるのがUSロボット社のロボットであっても不思議じゃない、という雰囲気。

展覧会のあと、やはり未来的な品川駅構内に戻り、立ち喰い蕎麦屋に入り、「二つで十分ですよ」というおやじの声を聞きながらかき揚そばといなりのセットを食べてから東海道線に乗った。
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2009年11月26日

モノクロームの現実

セバスチャン・サルガドの撮ったアフリカの写真に驚く。そこには見たことのない"アフリカ"があった。これまでもアフリカの写真や映像は数多く目にしてきたはずなのに、サルガドの写真には、見たことのない風景、地形、人々、表情、生活があると感じる。

それを可能にしたのは、撮影技術もあるのだろうが、深くその土地へと足を踏み入れ、人々の生活にも入り込んでいくというカメラマンの立ち位置によるものだろうと想像する。

その結果として生まれたのが、ドキュメンタリーとしての衝撃を持ちながら、アートとしての美しさも兼ね備えるサルガドの写真。そこに写されている人たちは、ある者は絶望し、ある者は声にならない怒りをたたえ、ある者は穏やかな喜びにあふれ、とさまざまなのだが、にもかかわらず写真としてはいずれもが美しく、静かに見る者に迫ってくる。

もっとも印象に残った作品は、しぼんで皺だらけになった左右の乳房に吸い付いている双子の赤ん坊の写真。出てこない母乳を必死に吸いだそうとするかのように赤ん坊たちは乳首を深くくわえこみ、赤ん坊とは思えぬほど肉の落ちた、老いた肉体労働者のそれを思わせる手で乳房にしがみついている。赤ん坊の顔、体もまた老人のよう。しかし、しがみつくその腕の筋肉は、肉が落ちた分だけはっきりと力強く存在感を示し、生命力を感じさせもする。僕は心の中で「生きろ!生きろ!生きろ!」と3回つぶやいた。
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2008年11月23日

演劇『友達』

安部公房の『友達』を大江賞の岡田利規が演出するということで、昨日22日、大江ファンの仲間3人と三軒茶屋のシアタートラムに見に行った。

演劇の舞台を見るのはどれくらいぶりだろう。以前、渋谷のBunkamuraで串田和美演出し吉田日出子などが出演するオンシアター自由劇場「ティンゲルタンゲル」というのを見たことがあるのだが、あれはたぶんまだ21世紀になる前のことだったと思う。おそらくそれ以来。

そんなわけで今回の観劇は、それに慣れていない僕にとっては作品内容云々よりもまず観劇という行為そのもののインパクトが大きかった。役者という、一般人よりも見た目の存在感のある人間たちが、目の前で肉体と肉声で何かを表現している、そのことの迫力に、大げさにいうならば恐れおののいた。人の前で何者かを演じるというのが、尊い聖的な行為のように感じられた。一番わかりやすい側面でいうならば、たとえばチョーかわいい女の子(女優)が、目の前で動いたりしゃべったりしたら「おおっ!」って感じるよね、っていうこと。僕はそんなふうに舞台に魅せられた。

さて、基本的にはそのように魅せられたわけだが、今回の作品の中身についていうと、気になったところもある。それは、『友達』というがっちりと構成された枠組みが最初からあったことに加え、俳優陣が岡田氏が主宰するチェルフィッチュのメンバーではないので、岡田流のナラティブが持ち込めず、また、演出家としてのコントロールが徹底できなかったのではないか、ということ。具体的には、岡田演出の特徴である<セリフとシンクロしない体の動き>が、部分的にしか導入されておらず、中途半端に感じられたし、岡田作品のもう一つの特徴である<視点の自由な移動>も行えなかった。

もちろん、これはチェルフィッチュの舞台ではないので、同じようにやる必要はないのだろうが、岡田流が徹底できなかったために俳優全員のベクトルが1つの方向に揃わなかった、という印象を受けた。

いやあ、ほとんど演劇を見たことのない僕が、じつに好き勝手なことを言っているものだと、我ながら思います。
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