2010年02月12日

小説と音楽――『水死』を再読しつつ

小説を読むことは音楽を聴くことによく似ているとつねづね思う。

音楽を聴くということは、その曲の始まりから終わりまでの時間をその音とともに過ごすということで、その間、耳を傾け、その音がもたらす感情や目に浮かぶ情景に身を任せるということだろう。早送りしたり、飛ばし飛ばしで聴いたのでは、その曲をちゃんと聴いたことにならない。

小説もそういうものではないか。飛ばし読み、斜め読みはもちろん、スジを追うように字面を目で追っていくだけでは、その作品をちゃんと味わうことはできないように思う。一つ一つの言葉を捉えて、それがもたらす感情や情景に身をゆだねるようにして読むことで、はじめてその作品を鑑賞することができるのではないか。そのように読んだとき、飛ばし読みとはまったく違う印象を作品が与えるということもあると思う。それがその作品の本当の姿と理解したい。

なかには、飛ばし読みのような読み方を想定した小説もあるかもしれない。展開する出来事を追っていくだけで楽しめるような小説。それはそれでよいと思う。否定はしない。しかし、じっくり読まなければ本当には味わえない作品も明らかに存在するし、自分はそのような小説により多くの楽しみを感じてきたと思う。

そんなことを『水死』を再読する合間に感じた、という話でした。
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2010年02月05日

スッカリやり直すには遅すぎる

文芸誌「新潮」の3月号に「小説家52人の2009年日記リレー」というのが載っているそうな。52人の作家が1週間ずつ日記を書いて2009年の1年間リレーしたということのようだ。1月1日から7日までを担当しているのが大江健三郎氏で、元日と2日の分が現在、「新潮」のサイトで“立ち読み”できる。

元日の日記には、「書きためてきた長編『水死』の、根本的な整理にかかる。難所にさしかかってそうするほかないのだが、問題は、十数年来の自分の小説の「書き方(ナラティヴ)」にある。しかし、スッカリやり直すには遅すぎる、という認識がある。」とある。

その『水死』は昨年末に刊行された。それで読書会も催した。読書会に向けての再読を、読書会の終わったいまも、じつはまだ続けている。

本書において、ある部分は会話で進行し、ある部分は演劇として進行し、ある部分は手紙として進行する。手紙のなかで演劇を回想し、さらにその演劇内で漱石の「こころ」が引用され、その引用がまた手紙の文章となっている、などという重層的な構造になっているところもある。このようなナラティブの複雑さは、大江さんの「根本的な整理」の結果ということだろうか。「スッカリやり直すには遅すぎ」たのだとしても、小説に変化をつけ、面白みを与えるのに大いに効果はあるように思う。

村上春樹、島田雅彦、角田光代、平野啓一郎、高橋源一郎、岡田利規など、ツイッターで見つけてフォロー中なのだが、大江さんがツイッターでつぶやく日はこないだろうなあ。
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2010年01月27日

WHERE THE WILD THINGS ARE

WHERE THE WILD THINGS ARE

映画に引き続き、モーリス・センダックの原作のほうを読んでみた。絵本なので、物語はシンプルだ。暴れたことのお仕置きで夕飯抜きで子供部屋に入れられたマックが、部屋に現れた海にボートでのり出し怪獣たちの島に着き、彼らの王となって遊ぶが、やがて寂しくなってお腹もすいたので帰ってみると、部屋には温かいスープが置いてあった、という話。要するに、夢で怪獣たちと遊んだということだろう。

となると、映画版における、マックスの母子家庭のありさまや怪獣たちの家族関係の悩みといったシリアスな側面は、スパイク・ジョーンズ監督による、原作にない要素の大幅な付け足しということになるだろうか。

僕はむしろ原作の機微、そこに描かれている要素を現代の視点で丁寧に読み取っていった結果としてああいう映画になったと感じる。つまり、映画の要素はすべて原作の言葉、絵、キャラクターたちの表情などに含まれていると思うのだ。そういう絵本だからこそ、世界で読まれるベストセラーになったのだとともいえるかもしれない。
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2009年12月29日

『水死』読了

例によって自己言及の多い、狭い世界の話なのではあるけれど、その枠組みに慣れた読者を揺さぶるようなさまざまな意匠が凝らされている。批判を取り込み、自分をコケにし、演劇世界との化学反応を試し、超国家主義を単純でない形で取り上げ、狭い舞台設定のなかで可能な限りの振幅で揺さぶりがかけられていると感じた。
昨日の朝日新聞の文芸時評で斎藤美奈子が『水死』を取り上げているのだが、その「アナーキーな小説」という評に同意。
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2009年12月22日

年の瀬の日々

今年は、所属する文学サークルで会報を作っていて、それに掲載すべく19日に座談会を開催した。場所はいつも読書会で利用している早稲田奉仕園。どういう展開になるかと若干の不安もあったのだが、話は楽しく盛り上がり、無事に終了。事前のメールでの打ち合わせで心配する僕に、司会を引き受けてくれたTさんは、大丈夫だからと言っていたが、実際そのとおりであった。参加者のプロフィール撮影はYさんが上手にこなしてくれて、録音のほうもHさん提供のICレコーダーでバッチリ。

一人でできることには限りがあるが、人が集まれば大きな力となる。しかも、楽しく。

ところで、早稲田奉仕園で思いだしたが、週刊朝日MOOK「筑紫哲也」を読んでいたら、この奉仕園のことがチラっと出てきた。2007年の年末特番のTV放送で、早大のグリークラブとのコラボレーションを行ったミュージシャンの小田和正宛ての手紙の中に「早大グリーの後輩たちとのシークエンスも、楽しく拝見しました。実は、私も出来の悪いOB(セカンドベース)なのですが、半世紀と変わらず奉仕園で練習をやっているのに笑ってしまいました。あそこは、教会なのでよくハモる。それで自分たちはうまいと錯覚してしまう場所なのです」。その特番は僕も見たが、たぶん奉仕園のスコットホールだろう。煉瓦造りの美しい建物で、地下の音楽練習室は読書会でも使わせてもらったことがある。若き日の筑紫哲也もあそこに来ていたということか。

話は戻って座談会のことだが、録音内容を今度はテキストデータにしなければならない。いわゆる「テープ起こし」だ。この手の録音にカセットテープレコーダーが使われることは少なくなってきていると思うが、「テープ起こし」という作業名は現役のようだ。ネットで検索すると、テープ起こし業者、テープ起こし作業者の募集、テープ起こしソフトウェアなどがヒットする。そうやって見つけたテープ起こしソフト「Okoshiyasu2」というのを使ってもみた。音声データの音声を認識してテキストデータを出力してくれるソフトなんかないものか、と思って探したわけだが、そこまでのものは見つからなかった。このOkoshiyasu2というのは、テープ起こし作業を円滑に進められるように工夫されてはいるが、あくまでも「音声再生ソフト」である。なかなかいいんじゃない、という感じだが、基本的には音声を繰り返し聞きながらひたすらキーボードで文字を入力していく、という機械的作業となる。録音は合計2時間ほどになるので、入力作業時間は十数時間に及ぶだろう。一人ではキツいので、協力者を募って三人で分担することになった。

会報は1月中旬には完成させたいので、年末年始、粛々と制作を進める予定だ。
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2009年12月07日

『コルシア書店の仲間たち』須賀敦子著、白水社

コルシア書店の仲間たち
ミラノ 霧の風景』の続編といってよいエッセイ集。須賀敦子が10年以上に及ぶイタリア滞在中、そこに人生のエネルギーを費やしたといってよいコルシア書店の活動に関わる人々を描いている。理知的でありながら、細やかで慈しみに溢れるまなざしが、読者の心にしみわたってくる、そんな本だ。

コルシア書店というのは、戦後のイタリアに起きたカトリック左派のグループが活動の拠点とした、ミラノにある店。イタリアに留学する前からコルシア書店の活動に共感していた須賀は、イタリアで書店のリーダー、ダヴィデにコンタクトをとり、やがてその一員として活動をし、中核メンバーの一人であるペッピーノと結婚する。イタリアでの須賀にとって人生そのものといった存在が、このコルシア書店の活動だった。

本書の一遍「銀の夜」に、帰国後の須賀が同僚の机に見つけた絵葉書の写真に、かつてのコルシア書店の仲間を見出したというエピソードが書かれている。それはマリオ・ジャコメッリという写真家の作品で、若き日のダヴィデと盟友カミッロらが修道士姿で雪の中ではしゃぐ姿を写したものだ。このような形でかつての、人生を共にしたといえるような仲間と「再会」するのはどんな気持ちだろうか。須賀のあとがきによれば、本書の刊行の前にダヴィデの訃報が届いたという。須賀敦子自身もいまはない。

「銀の夜」に紹介されているダヴィデの詩を引用しておこう。

  わたしには手がない
  やさしく顔を愛撫してくれるような……


僕の印象としては、須賀敦子のこの本は、このような問いかけに対する厳しくもあたたかい返答になっているようにも思える。
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2009年12月03日

『ミラノ 霧の風景』須賀敦子著、白水社

『ミラノ 霧の風景』表紙「二十代の終りから、四十代の初めという、人生にとって、さあ、いまだ、というような」十三年間をイタリアで暮らした著者が、記憶に刻まれたイタリアの人、街、風景、生活をしみじみと追想するエッセイ集。かの地で学び、仕事を得、イタリア人と結婚した、つまりはイタリアに生活の基盤を築いた人間ならではの(観光客的ではない)経験に基づく内容はとても新鮮で、大上段に構えず身辺の出来事を淡々とスケッチするような文章も心地よい。枕元に置き、夜ごと寝る前に1編ずつ読んだのだが、そんな読み方がじつにしっくりくる本だった。
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2009年11月22日

『街道をゆく39 ニューヨーク散歩』司馬遼太郎

軽く読めて適度なうんちくが詰め込まれている紀行文。週刊朝日の連載をまとめたものだが、そういうおじさん向け週刊誌の記事に必要な要素を過不足なく備えた文章と感じた。正直なところ、この文体にはあまり惹かれない。
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2009年11月21日

『ダンセイニ幻想小説集』ロード・ダンセイニ著、荒俣宏訳編、創土社

アイルランドのダンセイニ(1878-1957)の初期の幻想小説を集めた本。壮麗で詩的な文章で神々や人々、都市の運命をアイロニカルに描いている。冒頭に掲げられた「序 ペガーナの神々」に全体の雰囲気がよく表れているので引用しよう。

――まだこの世が始まらぬ前の霧のなかで、≪宿命≫と≪偶然≫とが賽(さい)を振って勝負を決めたことがあった。そして勝負に勝ったものは霧を超えてマアナ=ユウド=スウシャイのもとにおもむき、次のように言葉を寄せた。
「さて、われのために神々を創れ。われ賽に降り勝ち、勝者に供せるものを得たればなり」と。
 その賭けに買ったものが誰で、また、この世が始まらぬ前の霧を超えマアナ=ユウド=スウシャイに声を掛けたものが≪宿命≫だったのか≪偶然≫だったのか――知るものは誰ひとりいない――


古雅な文体や壮大な想像力に惹かれるか、「いったい何の話だ?」と端から興味を持てないか、読者の反応は二つに分かれるのではないだろうか。僕自身、読んでいて両方の反応をいったりきたりしていたように思う。

翻訳は若き日の荒俣宏。巻末に、生硬でハイテンションで情熱的なあとがきを寄せている。氏の若さと時代の空気というものだろうか。初版は1972年(昭和47年)。あさま山荘事件の年だ。
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2009年10月06日

斜陽

これまで読んだことのなかった、太宰治の「斜陽」を読んでみた。NHKのETV特集でこの作品を題材としたドキュメンタリをやっていたので。

「斜陽」は終戦前後の日本を舞台に、没落貴族の家の傾いていく過程を主軸にしつつ、その家の娘・かず子と無頼派作家・上原との道ならぬ恋の顛末をからめた話。かず子は上原の子を身ごもるものの上原に捨てられる。しかし、私生児を抱えてのこれからの人生を「道徳革命」と位置づけ、古い道徳と誇り高く闘っていくことを宣言する別れの手紙を上原に送る。

皆さんご存じのとおり、かず子には太田静子というモデルがいる。その娘(太宰治の娘でもある)が作家の太田治子さん。NHKの番組は彼女を案内役に「斜陽」成立の背景を掘り下げる。

非常に興味深かったのは、治子さん自身が「斜陽」という小説と不可分の関係にあるという点だ。「斜陽」は彼女の誕生なしには存在しなかったし、「斜陽」を作り上げようとする太宰と静子の関係なしには治子さんは誕生しなかった。

番組中、現在は「斜陽館」という記念館になっている太宰の生家を治子さんが訪ねる場面がある。表情をこわばらせ、斜陽館へ入ることをためらう彼女の姿に、静子の「道徳革命」の闘いはいまも続いているのかと感慨を覚えた。斜陽館を出た彼女にNHKのスタッフが「斜陽という言葉はお好きですか」と尋ねると、彼女は少し考えてから「人間失格よりはいいと思います。陽がさしているのですから」と答える。

番組の最後で彼女は、「斜陽」は母と私へ宛てた太宰の遺書なのだと述べる。

小説で、かず子が最後に上原に送った手紙にはこうある。「私はあなたを誇りにしていますし、また、生れる子供にも、あなたを誇りにさせようと思っています。/私生児と、その母。/けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。」

治子さんによれば、彼女の母は実際そのように生き、そのように治子さんを育てたという。そう語る治子さんの顔には、母・静子から受け継いだと思しきハッキリした目とともに、全体に太宰治の面影が濃く表れているのだ。運命の子としての人生、とでもいおうか、その重みが想像されて、めまいがするようであった。
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2009年09月27日

雑誌G2

月刊現代の後継として講談社が創刊したG2を読んだ。中東に渡った日本赤軍兵士を描いた「奥平剛士の「愛と革命」リッダ!」に興味を持って入手したのだが、どの記事も面白く、結局、最初から最後まで全記事を読んでしまった。

作家・柳美里が我が子への自身による児童虐待を綴った「ドキュメント「児童虐待」」などはショッキングな内容で、柳美里の今後が心配になるほどだ。すべてをさらけ出す作家根性には恐れ入るが、本当に、作家としてこの先やっていけるのだろうか、この人は。

G2はノンフィクション専門誌ということらしい。そのように銘打つ雑誌はあまりなかったように思う。記事を公式サイトでも公開していくという。意欲的な試みとは思うが、果たしてビジネスとして成立するのだろうか。当面は不定期刊とのことで、講談社としても手探りでやっていくということか。



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2009年07月28日

『街道をゆく 愛蘭土紀行I・II』司馬遼太郎、朝日文庫

ケルト文化を溺愛する家人の勧めで読んだ、初めての司馬遼太郎。懐かしい昭和の香りのする紀行文に乗っかって、空間ばかりでなく時間も自在に移動しながらのバーチャルなアイルランド旅行を楽しんだ気分だ。

アイルランドはイギリスに収奪され続けた歴史があること、それゆえ反英の気持ちが底流にあること、それゆえ日本(かつて英国と戦争をした日本)に対する親近感が強いこと、多数の移民を米国に送り出しており米国でのアイルランド系住民は四千万ともいわれるということ、スウィフト、ワイルド、ベケット、イェイツ、ジョイスなどを生み出した文学大国であること、などが、旅の道程のなか随所で語られる。

ビートルズの出身地であるリヴァプールは、アイルランドに面した港であり、アイルランドとの関わりも深い。ジョン・レノンとポール・マッカートニーはアイルランド系だという。アイルランドのことを共感をこめて歌った「あなたがアイルランド人なら」という歌もあるそうだが、どんな曲だろう?
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2009年07月23日

普請中

森鴎外の「普請中」が日本ペンクラブの電子文藝館で公開されていたので読んでみた。
ドイツで一緒だった女が歌い手としてピアノ弾きと一緒にロシア経由で日本にやってきたので、普請中(工事中)の精養軒ホテルでデートする、という「舞姫」の後日譚的な内容。女は、日本はだめ(商売にならない)だから次はアメリカに行くといい、主人公の渡辺は「日本はまだ普請中だ」という。工事中のホテルと近代国家建設途上の日本を重ね合わせつつ、二人の男女の再会をシニカルにスケッチしている。

明治の作品ながら、艶っぽい部分がちょっとドキドキさせる。ホテルで再会した際、女は給仕の見ている前で渡辺に手を差し出し、洋風の挨拶を求めるのだ。渡辺は、芝居をしやがってと思いながらも女の指先を握って挨拶をする。ピアノ弾きの男との仲をたずね、自分が歌ってピアノ弾きが伴奏するだけだと答える女に、「それだけではあるまい」と重ねて問い、「そりやあ、二人きりで旅をするのですもの。まるっきりなしといふわけには行きませんわ」と答えさせる。なしじゃないって、何が?何が?何が?(笑)
しまいには、テーブルの上で男に手を握らせて「キスをしてあげてもよくって」と女は言う。一生に一度くらいは女にそんなことを言ってもらいたいものだと、明治の青少年もエキサイトしたのではないだろうか。それで洋行を決意した者すらいるかもしれないな。それはともかく、その言葉に渡辺は顔をしかめ「ここは日本だ」と応じる。

ところで、明治は1912年に終わっているから、それからもうすぐ100年ということになる。100年間、普請に普請を重ねて日本はどうなったか。経済大国にはなった。人前で手を握ることもキスをすることもできるようになった(なってない?)。この日本を見て鴎外は、日本は一応の完成に達したと考えるだろうか。それともまだ普請中と断ずるだろうか。

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2009年07月19日

写真集『被爆者 60年目のことば』写真・文 会田法行、ポプラ社

被爆者
原爆投下から60年目の年に撮影された6人の被爆者たちの日常風景。

毎日、広島の原爆ドームの写生をしている原廣司さん。

かつて国連で被爆者代表として「ノーモア広島、ノーモア長崎、ノーモア被爆者!」と演説した山口仙二さん。

被ばく当時に撮影された写真と、今も残るケロイドをさらし、語り部として被爆体験を語る谷口稜暉さん。

人の痛みを自分の痛みとして感じられる人間になってほしいと子供たちに被爆体験を語る渡辺美千代さん。

母親の胎内で被爆し、原爆小頭症児として誕生し、家族に支えられながら生きてきた畠中百合子さん。

大勢の男性から求婚されるほどの美貌を誇った若い娘から一転、被爆者としての苦しみを抱えることになるも、信仰に救いを見出し、ローマ法王への謁見も果たした片岡津代さん。

被爆から60年という歳月を生き抜いてきた彼らの姿は、いずれも神々しさを帯びているかのようだ。
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これもyさんからお借りしたもの。

ところで。

被爆者といえば、先日、三宅一生氏がニューヨークタイムズ紙で、自らの被爆体験を明かしつつ、オバマ大統領に広島の平和式典への出席を呼びかけた。勇気のある行為だと思う。日本政府もその実現に向けて最大限の努力をすべきではないかとも思う。
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写真集『バグダッド 路上の少年たち』写真・文 会田法行、新泉社

Street of Baghdad
俺の人生で楽しかったことなんて一度もない――15歳の少年がそう吐き捨てる。2003年の米国によるイラク侵攻から1年後、バグダッドの路上に暮らす少年や若者たちの生活に密着取材した写真集。そこにあるのは、喧嘩をし、怒りに自分の体を自ら傷つけ、シンナーを吸い、警官や米兵に追い散らされる日々。

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yさんにお借りした本。
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2009年07月18日

『マルクスは生きている』不破哲三著、平凡社新書

マルクスの思想の全体像を、マルクス、エンゲルスの文章を引用しつつ、さまざまなエピソードも交えつつ紹介し、そのマルクス主義の観点から現在の日本や世界のあり方を検討し、世界の将来をも考える、といったもの。マルクスの著書は、エンゲルスとの共著『共産党宣言』しか読んだことがないので、平易で読みやすい本書は、僕には良いマルクス入門書となったように思う。

本書が生まれた背景(出版社から不破氏に話が持ち込まれたそうだ)には、現在の金融危機を大きなきっかけとした「資本主義」への不安があるようだ。ソ連が崩壊したときには、「資本主義の勝利!」「マルクスは死んだ」といった声があったものだが、昨今は資本主義の限界とかマルクス主義の再評価みたいなことが言われるようになってきている。そんなところから、マルクスに詳しい人にマルクスのことを書いてもらおうという企画が持ち上がったそうだ。

本書は、多面的な活動をしたマルクスについて、1.弁証法を武器に歴史を科学的に捉え、史的唯物論を確立した唯物論の思想家、2.資本主義(この概念自体がマルクスによるもの)のしくみと避けがたく繰り返される恐慌の原理を解き明かした資本主義の病理学者、3.資本主義の先にあるものとしての共産主義社会を規定した未来社会の開拓者、という3つの面に整理して紹介している。1、2は純粋に知的好奇心を満たす内容となっている。3は、現実の政治に関わってくる部分で、少々生臭い話(ソ連の問題など)も入ってくるのだが、それゆえいっそう興味深い。

一つ、小さなことだが、知って非常にすっきりしたことがある。「社会主義」と「共産主義」という言葉のこと。マルクスたちはこの二つを同じ意味で使っていたというのだ。僕が子供の頃は、「社会主義」というのは「共産主義」に至る途中のものという位置づけで使われていたように思う。しかし、それはレーニンの定義だという。マルクスたちは、そのような中間段階は想定していなかった。日本の左翼の用語法もレーニンの影響を受けていたということか。
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2009年07月14日

『新左翼とロスジェネ』鈴木英生著、集英社新書

新左翼の歴史をたどりつつ、そこに参加した若者たちの心のあり方を時代時代の文学作品や手記などを引用して紹介し、それを現在のロスジェネ(ロストジェネレーション)の姿と対比。さらには、新左翼の正負の遺産のうち正の部分をロスジェネの問題の解決へと結びつけられないかと夢想する。そのような本(この説明じゃよくわからないよね)。

内容をざっくりとまとめてしまうと、かつて「貧困」があって「連帯」が生まれた。また、「僕って何?」という「自分探し」があって、それが「連帯」へとつながった。それが新左翼の時代。いまのロスジェネは、「貧困」かつ「自分探し」の状態。「貧困」も「自分探し」もそろっているのだから、新しい「連帯」が可能なのではないか。というような本。

著者は、昨年の『蟹工船』ブームのきっかけを作った新聞記者。
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2009年07月12日

『ロジカル・ライティング』照屋華子著

ロジカル・シンキングに基づく文章作成術の本。論理的な文章の組み立て方を解説した「第1部 メッセージの組み立て」、その論理的な文章の組み立てを視覚的に伝えるためのレイアウトや日本語表現のポイントをまとめた「第2部 メッセージの表現」の二部構成。企画書、提案書、レポートなどをよく書く立場の人には大いに参考になるのではないかと思う。

論理的に組み立てるとはどういうことか。著者は、次のように解説する。

説明内容を羅列するのではなくグループ分けすること、そしてグループ分けした情報から言えることは結局何なのかというエッセンスをクリアに示すこと

そのためのアプローチとして、有効なのが、MECESo What?/Why So?という考え。MECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)というのは、「ある事柄や概念を、重なりなく、しかも全体として漏れのない部分の集まりでとらえること」をいう。説明内容をグループ分けしても、それがグループ間で重複があったり漏れがあったりしては論理的でなくなるというわけだ。

So What?は、そのグループ分けした個々のグループから、何が言えるかを考えるということ。「で、結局どういうことなの?」ということだ。そのようにして、個々のグループから小さい結論を導き、それらを統合してさらにSo What?を考えていく。

Why So?は、上記を逆方向で見る考え方。ある結論に対して「なぜそうだと言えるの?」と考えて検証するわけだ。

こういった考え方でもって論理的な文章を組み立てるのがロジカル・ライティング。

ただ、このロジカル・ライティングは、本を読んで理解すればよいというものではなく、訓練を積んでいかなければ身につけられないもので、「手っ取り早くコツをつかみたい」というような要望には応えらない(そんなコツはないともいうことか)。第2部のほうは、表現レベルの話なので、すぐに実践に活用することができるだろう。

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2009年05月01日

加藤周一『続 羊の歌』

1945年の敗戦から1960年の安保改定の頃までの見聞に基づくエッセイ――なのだが、これはまた稀有な知識人の半生を綴った自伝であり精神史でもある。1968年に初版の出ている本で、40年以上前のものではあるが、2004年に加藤周一が九条の会という政治運動の呼びかけ人(9人の呼びかけ人のなかの実質的な言いだしっぺ)となることにつながる考え方がすでにここに明確に示されている。
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2009年04月17日

三浦綾子『母』

小林多喜二の母セキの視点で、セキと多喜二の生涯を描いた小説。TBS「いのちの記憶―小林多喜二・二十九年の人生」(2009年2月2日放送)の底本。筆者のあとがきによれば、多喜二の兄弟、縁者、友人など、存命の関係者多数に取材したということなので、事実関係は確かなものと思われる。

極貧でありながらも明るく優しさに満ちた家庭のあり方に感動するとともに、息子を官憲に拷問のうえ殺された母の悲嘆に胸が痛む。
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