2011年08月24日

『チャリング・クロス街84番地』へレーン・ハンフ著、江藤淳訳、中公文庫

古書を偏愛するニューヨーク在住の女性(著者)とロンドンの古書店店員との20年に及ぶ書簡のやり取りをまとめたもの。両者のユーモアと知性と友情あふれる文面に心が温まる。日本語のオンナ言葉を書いているのが江藤淳だと思うと、ちょっと没入しきれないところがあって、誰か女性の翻訳家が訳したらどうだったろうか、とも思う。

アン・バンクロフトとアンソニー・ホプキンスで映画化されているとのことなので、それも観てみたい気がする。
posted by kunio at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年08月22日

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子、朝日出版社

東大の歴史学者が高校生の歴史研究部の部員たちを対象に行った五日間の講義をまとめたもの。内容は日清戦争から太平洋戦争まで。面白くて一晩で一気読みしてしまった。

本書の特徴は、視点をさまざまに移動しながら歴史を多角的、複眼的に見せてくれる点にあるだろう。あるときは日本のおかれた状況を国際関係や経済状況からマクロに捉え、あるときは個人の日記や発言から心情を想像してミクロに捉え、またあるときは日本と敵対する相手国の事情に分け入り、という具合に視点が垂直水平に自在に移動する。

そんなわけだから、本書は一つの政治的立場や思想的立場から歴史を語るのではなく、あるがままの歴史を提示する本となっている、と思う。それはまた、本書が、どのようにして日本人が「戦争」を選んだかの経緯は示しつつも、なぜ選んだか、どうすれば選ばずに済んだか、の答えを提示しないことにも通じているように思う。それは歴史学の範囲を超えるということだということだろうか。
posted by kunio at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年08月16日

『大震災のなかで』内橋克人編、岩波新書

3月11日の大震災とそこからの復興についての、知識人や各分野の専門家による文章をまとめたもの。筆者たちの受け止め方を知るにつけ、この出来事の大きさ、日本や世界に与えたインパクトの大きさを思わずにいられない。印象に残る言葉をいくつか引用しておきたい。なかには極端な意見と思えるものもあるかもしれないが、それは物事を端的に表現しているということであると受け止めたい。


「日本は、広島から核エネルギーの生産性を学ぶ必要はありません。つまり地震や津波と同じ、あるいはそれ以上のカタストロフィーとして、日本人はそれを精神の歴史にきざむことをしなければなりません。広島の後で、おなじカタストロフィーを原子力発電所の事故で示すこと、それが広島へのもっともあきらかな裏切りです。」大江健三郎(作家)


「資本=国家の専制体制が解体されないかぎり、日本の「新生」はありえない。それらが無傷で残っている間、日本の「復興」がろくなことにならないのは目に見えている。原発を推進して来た者らがなすべきことは「復興」などではなく、このような事態をもたらした犯罪的行為に対して償うことである。われわれは原発を廃棄するということのほかに何も提案する必要はない。原発の廃棄を通してのみ、つぎになすべきこと、なしうることが見えてくるのである。そのときにのみ、「地震がもたらしたのは、日本の破滅ではなく、新生である」ということができるだろう。」柄谷行人(評論家)


「阿武隈山系の北部に位置する飯舘村は、人口約6000人の酪農が盛んな地域で「飯舘牛」がブランドとなっている。村の総合計画では、20の行政区ごとに地域別計画を作成し、村民一人ひとりが村づくりに携わり、「日本で最も美しい村」の一つにさえなっている。1989年から5年間、地元の若い女性たちをヨーロッパへ研修に送り出したり、全国に先がけて「パパクォーター制度」(育児休暇を父親にも割り振る制度(伊藤注))を導入するなど、女性も男性も村づくりの主人公になれるための取り組みを進めるユニークな自治体であった。」丹波史紀(福島大学行政政策学類准教授)

今回の出来事で初めて名前を知った飯舘村が、このようなところであることを僕は知らなかった。このような故郷から避難せざるを得ない住民たちの無念さは、どれほどのものだろうか。

「東日本大震災の犠牲者は、津波による死者・行方不明者が大半である点において、火災の犠牲者が中心であった関東大震災とも、建物倒壊が主となった阪神・淡路大震災とも異なっている。そのため、罹災者は、沿岸域に集中しており、産業的には漁業・漁業関連産業(漁協・水産加工業・仲買業・輸送業・造船所等)の従事者やその家族の比率が高い。このことはこの災害の被害の性格を考慮するためにも、復興のための方策を検討する場合にも、漁業・漁業関連産業の特性について配慮を加えることが必要であることを示唆している。」加瀬和俊(東京大学社会科学研究所教授)

これについては、この文だけでなく、「漁業の復興に必要なこと」と題されたこの文章全体が印象に残っている。それは漁業関係者の実情を踏まえたもので、そこを把握したうえでなければ有効な復興策は構想しえないであろうことを理解させるものだ。

「被災者にとって、被災地は「生活」の場だが、それ以外の者にとって、被災地は「事件」の場だ。「事件」の現場と思って赴くと、そこには「生活」がある。(中略)今回の大災害が、さまざまなものの転機になってくれればと私自身も思う反面、壮大な文明史観を持ち出すような前のめりの言説に違和感を抱くのは、それが「事件」の切断面にのみ着目しているように見えるからだ。/その人たちは「すべて流されてしまったのだから、この際……」と、この機会を捉えようとする。そして復興プロセスに夢を託す。これまで、自身の生活、自身の住む社会において実現できなかった夢が、どうして「この際」なら可能なのかといえば、この「事件」によってすべてが切断され、更地になり、リセットされたと考えるからだ。しかし、そこでは被災地で連綿と続く「生活」が忘れ去られている。復興プロセスは、被災地のこれからの「生活」を左右する。逆から言えば、被災地の「生活」は復興プロセスによって振り回される。にもかかわらず、被災地の「生活」を軽視した復興プロセスが行われるのだとしたら、それは二次災害である。/だから私は、それを「便乗復興論」と呼ぶ。」湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長)

「被災地には生活が続いている」と題されたこの文章によると、湯浅氏は毎週被災地を訪れているそうだ。常に現場レベルで問題解決に取り組んできた氏らしい視点が上記の文からもうかがえる。加瀬氏の文章とあわせ、復興を考えるうえでは住民の声を聞くこと、住民本位で考えることが不可欠であるということが理解できる。
posted by kunio at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年07月21日

『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』黒岩比佐子著、講談社

パンとペン.jpg
『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』を読了。明治3年に生まれ昭和8人に亡くなった社会主義者・堺利彦の評伝なのだが、サブタイトルにあるとおり売文社のことを詳しく書いている点に特色がある。

売文社というのは、1910年(明治43年)に堺が立ち上げた会社で、論文、翻訳、演説原稿、広告文、手紙まで、文章作成ならなんでも引き受けるという、いまでいうなら編集プロダクションや翻訳会社のようなもの。ここで堺は自らも書きまくり、なおかつ、大逆事件以降の「冬の時代」において行き場を失った社会主義者たちの口を糊する場を提供し、ここを拠点としてしたたかにかつ楽天的に社会主義の闘争を続けたのだった。タイトルの「パンとペン」は、ペンでもってパンを得るという意味を持つ同社のシンボルマークである。それを実行した堺利彦は、有能万能な文筆家であり、優れた編集者であり、人間的な魅力に富み、経営者としても優秀だったようだ。

それにしても、何という数奇な人生か。ともに日露戦争に反対して平民社を作った盟友の幸徳秋水を大逆事件で失い、関東大震災直後に長年の同志である大杉栄を憲兵隊に虐殺され、そのどちらも自身は別件に拘束されていたがために命拾いをしたという。そのほか暴漢に襲われること二回。うち一回は、致命傷にこそならなかったが刃物で刺されてもいる。

著者の黒岩比佐子氏は、本書の上梓直後に亡くなっており、これが遺作ということになる。その事情が了解されるくだりが「あとがき」の最後にあるので、引用しておきたい。

---
 これで、私の売文社の軌跡をたどる長い旅がようやく終わった。実は、全体の五分の四まで書き進め、あとひと息というところで、膵臓がんを宣告されるという思いがけない事態になった。しかも、すでに周囲に転移している状況で、昨年十二月に二週間以上入院し、抗がん剤治療を開始したが、体調が思わしくない日々がしばらく続いた。
 はたして最後まで書けるだろうか、という不安と闘いながら、なんとかここまでたどりついた。死というものに現実に直面したことで、「冬の時代」の社会主義者たちの命がけの闘いが初めて実感できた気がする。いまは、全力を出し切ったという清々しい気持ちでいっぱいだ。
 病気のことを知った友人や未知の読者の方々から、これまでにたくさんの激励のメッセージをいただいた。本書はその方々すべてに感謝をこめて捧げたい。私の「冬の時代」はまだ続きそうだが、どんなに苦しいときでも、堺利彦のようにいつもユーモアを忘れず、楽天囚人ならぬ“楽天患者”として生きることで、きっと乗り越えていけるだろうと信じている。
---

読者として、この価値ある本を残してくれた著者に心から感謝したい。黒岩さん、ありがとう。
posted by kunio at 05:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年07月13日

再読『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』

大江健三郎の『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の再読を終えた。これは傑作と言わねばなるまい。小説というのがどこまで自由なものであり得るか、文体がどれほど創造的であり得るか、その最高の見本の一つ、といったら大げさだろうか。個人的には、60年代の後半という時代と、30代前半の大江健三郎という組み合わせでもってはじめて到達し得た高みがここにあると言いたい。
posted by kunio at 03:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年07月06日

『1995年のスモーク・オン・ザ・ウォーター』五十嵐貴久著、双葉文庫

1995年のスモーク・オン・ザ・ウォーター.jpg昨日、駅に向かって坂道を登っていると、自転車に二人乗りをした女子高生が「あつい、あつい、あつい」とリズミカルに声を発しつつ僕を追い越していった。その後ろ姿に、「青春そのもの」という言葉が思い浮かぶ。彼女らには、自分たちが人生のなかでそういう特別な時間にいるという意識はあるだろうか。たぶん、あるんだと思う。誰でもそうなんじゃないだろうか。少なくとも僕はそういう意識を強く持ってあの頃を過ごしていたし、それゆえに、それが終わる前にそのときにしかできないことをしなくちゃいけないという焦りもあった(結局、何もできなかったような気がするけれどもね)。

しかし当時の認識は当事者としてのものであって、やはり客観性を欠いていたように思う。あのころは、その時期が人生で唯一の旬であり、それを逃せばもう輝くようなときは訪れない、というように青春を絶対視していたように思うのだ、端的に言うと。もちろん、あれは人生の旬であり生命が一番輝くときだろうとは今でも思うが、そのあとも人生はちゃんと続くし、そこには、青春に期待するような歓喜も熱狂も逸脱もそれなりにあり得るということを、今は知っている。「それなりに」というより、より深いレベルで、といったほうがいいかもしれないな。

で、五十嵐貴久の『1995年のスモーク・オン・ザ・ウォーター』だが、これは阪神・淡路大震災とオウム真理教のサリン事件のあった1995年に、団塊世代のごくふつうの主婦がひょんなことから同世代の女たちとバンドを組み、スモーク・オン・ザ・ウォーターを練習し、震災復興支援のチャリティイベントの大ステージで演奏をするまでをユーモラスに描いたものだ。その過程で、家族やバンドメンバーそれぞれが抱える問題も描かれるのだが、そういったこともバンドの活動の結果として克服の兆しが見えてくる。

本書のメッセージは、セイシュンにしろ何にしろ、やり直せるんだということ、諦めるなということ、だと思う。みんな、がんばろうな。
posted by kunio at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年07月01日

送料250円

110701-093852.jpg

カイリー・ミノーグのヴィジュアルブック『ラ・ラ・ラ』が届いた。思ったより大判で、グラフ誌くらいのサイズがあり、厚みも3センチくらいある。アマゾンのマーケットプレイスで買ったので(古本)、値段は565円。カバーがついてないのは残念だったが、安いのでよしとしよう。それよりも驚きなのが、送料が250円ということ。2500円ではなく、250円。どういうことなんだろう? 国内で、空港なり港なりからうちまでこの本(iPadより重い)を250円で送ることはできないのではないだろうか? それがイギリスから250円で届くとは!
さおだけ屋の本(読んでないけど)を書いた人、今度はこの謎を解き明かしてくれないものだろうか。
posted by kunio at 10:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年06月12日

『ビトウィーン・ザ・ラインズ』ジェイソン・ドノバン

Jason Donovan.jpg

すでに何度かこのブログで取り上げてきた、カイリー・ミノーグの元彼であるジェイソン・ドノバンの自伝。元彼の視点から見たカイリーの姿に興味を持って読み始めた本であったが、それ以上に得るものがあった。ここには、郊外にすむ普通の子が国民的大スターになり、共演した女性(カイリー)と恋に落ち、別れを経験し、ポップスターになり、舞台俳優としても成功し、ドラッグ漬けの日々を送り、過去の人となり、運命の女性と出会い、復活を遂げる、というその半生がきわめて正直な態度で語られている。

本書は、ジェイソンがジョニー・デップとケイト・モスのパーティに招かれ、ドラッグのせいで卒倒して救急車で運ばれるという場面から始まる。そこに、スターの生活の光と影が象徴されているし、このような恥辱をさらけ出す彼の独白の正直さもここに表れている。

このオーストラリア人に興味を持ったのは、以下の映像がきっかけだった。これは「ザ・カイリー・ショー」というテレビ番組の一部分で、かつて実生活において恋人同士だった二人が、そのことをネタにショートコメディを演じている。これが僕にはじつに面白くて、もう何度みたかしれない。設定や演出もさることながら、二人の演技が面白さの要因でもある。こういうことをするジェインというのはどういう人なのか、興味がわいてこないだろうか。



本書を読む物好きはあまりいないと思うので、本書の最後に掲げられている言葉を紹介しておこう。シュザイツアーの言葉だそうだ。

Success is the key to happiness
Happiness is the key to success
If you love what you are doing, you will be successhul.

Wow... that said it all for me.
posted by kunio at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年05月20日

第5回大江健三郎賞記念公開対談

110519-183542.jpg

昨日、講談社内で開催された、大江さんと星野智幸さんの対談を聞いてきた。星野さんは1965年生まれということなので、40代半ばだが、見た目は数歳くらい若く、爽やかな雰囲気。

話しは受賞作『俺俺』のこと。大江さんは本作を、安倍公房を髣髴とさせる「小説的思考力」のある作品と評価。小説的思考力というのは、本作でいうなら「俺」が増殖していくという設定・しかけであり、これにより物語は駆動されていく。それに応じて星野さんは、次のように述べた。かつて自分の作品の登場人物はロボットのようだと批評された。それは小説的思考力に偏った小説だったからだろう。そこで『俺俺』では、登場人物に人間としてのリアリティを持たせることに腐心した、と。大江さんはそのリアリティをもたらすのは「小説的想像力」であるとし、この力によって一つ一つ書き込まれた描写の積み重ねが、人物にリアリティを与えるのだと解説した。つまり『俺俺』は、小説的思考力と小説的想像力の両方に支えられた作品であると。

本作のテーマについて星野さんは、誰もが置き換え可能になってしまったかのようないまの日本社会の姿を可視化することだと述べていた(派遣労働者の不安定な雇用状況などは、その典型といえる)。問題を目に見える形にすることが、それを克服するきっかけになればいい、とも。星野さんの志の高さに感銘を受けた。ここに、世の中にある課題を正面から受け止めてそれと闘おうとする、一人の誠実な作家=アーチストの姿を見たように思う。

大江さんは「オレオレ」という言葉がほかの国の言葉にあるかどうかを前日に調べたという話をし、フランス語にそれがあったと紹介(いやなもの、良くないもの、というような意味だとか)。最後に、スペイン語での励ましの掛け声である「オーレ!」の言葉を星野さんに向けて発して、対談を終えたのだった。大江さんもまた核や超国家主義といった大きいテーマに(魂の救済というテーマとともに)取り組んできた作家だ。この「オーレ!」の掛け声は、そんな先輩作家からの同志的な声援のように聞こえた。
posted by kunio at 11:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年05月17日

『俺俺』星野智幸著、新潮社

第5回大江健三郎賞受賞作『俺俺』(星野智幸著、新潮社)。これ、ある時期の筒井康隆作品に似た雰囲気だと思ったのは僕だけだろうか。「もし〜だったら」という設定で状況を極限まで押し進めて、そこに現れる世界を描いて見せるというタイプの作品。本作の場合の設定は、「もし俺が増殖していったら」。本作には、一面において筒井作品と同様のドタバタSFの要素があると思う。大江さんは筒井康隆を敬愛しているようだから、これは大江賞受賞の一因かも?

仕掛けはドタバタSF調ではあっても、テーマは普遍性があるように思う。それは一言でいうと「自分とは何か」だろう。「俺」が増殖した世界では、必然的にはそれが問われることになる。

もう一つ感じたのは、同種の人間ばかりとなった均質な世界の同調圧力が、日本社会に対する批評のようであること。作者にそういう意図があるのかどうかはわからないが。
posted by kunio at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年05月09日

『女ぎらい』上野千鶴子著、紀伊国屋書店

副題は「ニッポンのミソジニー」。ミソジニーとは、男にとっては「女性嫌悪」(女性蔑視)であり、女にとっては「自己嫌悪」。上野によれば、「女好き」はじつはミソジニーであり、その典型として文壇の吉行淳之介を挙げる。

吉行に続けて大江さんの名前も登場するので(さらにはサイードも)、ちょっと複雑な気分ではあるが、そのくだりを引用しておこう。

吉行を読んで怒りを覚える代わりに、吉行を男の性幻想のかっこうのテキストとして読むという読み方もある。そう考えれば、むかむかする読書体験も、男は何かについてここまで赤裸々にばらすか、という教訓的な読書となる。実際、そうでも思わなければ、たいがいの男の書いたものは心おだやかに読んでいられない。あのノーベル賞作家、大江健三郎の作品にも、加藤秀一が指摘するように、「しばしばフェミニズムの対する警戒心たっぷりの揶揄やあからさまなホモフォビア的言辞が無造作にかきつけられ」ている。だがいちいちむかつく代わりに、サイードがオリエンタリズムについてそうしたように、男の作品を「女についてのテキスト」ではなく、「男の性幻想についてのテキスト」として読めば、学ぶことはたくさんある。そのなかでかれらは、男という謎について、あきれるほど率直に語っているからである。(p.17-18)


たぶん、上野の指摘は当たっていると思う。大江文学の愛読者である自分でも、「えっ!」と思うことがないわけじゃない。

ところで、本書は、一部の人間の特殊な性向や病理を扱ったものではなく、日本人全体を対象としていて、いまの日本人の心のありかた、社会のありかたが論じられている。当時のそのなかには自分も含まれるわけなので、これは心穏やかに読めるものではなかった。読後、大きい宿題を与えられたよう思いになる。

posted by kunio at 05:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年05月05日

『朗読者』ベルンハルト・シュリンク著、松永美穂訳、新潮文庫

時代は1960年初頭だろうか、物語の舞台はドイツ。15歳のベルクは街で出会った中年女性ハンナと偶発的に出会い、自分で理解できない衝動に駆られて彼女の家を訪れ、関係を結ぶ。

いまでも、女性と一晩過ごすたびに、ぼくは自分が甘やかされたような気がして、何か償わなければいけないという気持ちになる。その女性に対して、彼女を愛そうと努力することで償うだけでなく、ぼくが向かい合っている世界に対してもお返しをしなければ、と思うのだ。(p.32)

あることがきっかけで、ベルクはハンナに本の朗読を求められ、以来、朗読が二人の間で不可欠の儀式のようになる。

「あんたはとってもいい声をしてるじゃないの、坊や、あたしは自分で読むよりあんたが読むのを聞きたいわ」
「声がいいかどうかなんてわからないよ」
 ところが、ぼくが翌日やってきてキスしようとすると、彼女は身を引いた。
「まず本を読んでくれなくちゃ」
(p.52)

少年の、年上の女との“青い体験”的なロマンスとして始まる物語は、しかしハンナの突然の失踪によりガラリと雰囲気が転じる。法学生となったベルクがゼミのために傍聴した戦犯を裁く法廷で、被告席にいるハンナを発見するのである。そしてベルクは、傍聴を続けるうちに、かつて自分に朗読を切実に求めたハンナの秘密を知ることになる。

ここから物語は、ベルクとハンナのその後をたどりつつ、ナチス時代および戦後のドイツとドイツ人のあり方を考えさせるものへとさらに転じる。

本作は、ケイト・ウィンスレット主演で『愛を読むひと』という題名で映画化されている。残念ながらまだ観ていないのだが、この物語がどのように映像化されたのか興味があるので、機会があれば観てみたい。
posted by kunio at 10:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年04月29日

『火山の下』マルカム・ラウリー著、斎藤兆史監訳、白水社

火山の下.jpg

この作品を読んだのは、大江健三郎の『「雨の木」を聴く女たち』で頻繁に本作や著者マルカム・ラウリーへの言及がなされていて、とても魅力的作品に思えたから。内容は、メキシコの地方都市を舞台に、1938年11月の“死者の日”(メキシコの祭日)における、アルコール中毒の元英国領事の破滅的一日の出来事。劇的な結末を除けばとくに大きな事件があるわけでもないのだが、現在の物語の進行のなかに回想が多数織り込まれ、章ごとに人物から別の人物へと視点が移り、全体としては500ページの分量になっている。

この作品の魅力は文体だろう。豊かな比喩、大胆不敵な表現、とにかく一文一文がじつに創造的なのだ。そのような文体で、破滅の奈落の縁でもがく領事ジェフリーと周辺の人物(妻イヴォンヌ、弟ヒュー、友人ラリュエルなど)の魂の懊悩が描かれる。

帯の言葉によれば“20世紀文学の金字塔”とのこと。幅広く“20世紀文学”を読んできたわけではないので、その評価が妥当なのかどうかはわからないけれども、自分の読書体験の範囲で言うならば、確かにこれはそのように呼ばれてしかるべき作品だと思える。



posted by kunio at 21:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年04月27日

『火山の下』より

酩酊による意識の混濁のなか、聖母像に領事が祈る、その言葉。

「どうか彼女を幸せにできますように、この恐ろしい自我の支配から私を解放してください。私は堕落しました。真実を知ることができるよう、私をより堕落させてください。私にふたたび愛することをお教えください。人生を愛することを」「愛はどこにあるのですか?私を心から苦しませてください。私が裏切り、失ってしまった純粋さを、秘儀の知識をお返しください。――私が正直に祈ることができるよう、私を真の意味で孤独にしてください。私たちがどこかでふたたび幸せになれるよう、たとえそれが一緒のときだけだとしても、この恐ろしい世界の外でだけだとしても。世界を滅ぼしたまえ!」
posted by kunio at 05:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年02月20日

『世界を変えるデザイン』シンシア・スミス著、英治出版

原題は"DESIGN FOR THE OTHER 90%"、直訳すると「残り90%の人たちのためのデザイン」ということか。「デザイン」というと、美しく高級な服、時計、車、靴、各種の電気製品などを思いうかべる人が多いのではないだろうか。しかし、そういったものを使用できるのは、世界の人口の10%に過ぎない。本書は残りの90%の人たちのために役立つ製品のデザインについての本だ。また、世界の90%に向けたものづくりに挑むデザイナーや、その製品の普及に取り組む人々のことを書いた本だ。

90%の人たちの生活を改善するということは、すなわち世界を変えることといってよいだろう。世界は変えられるのだろうか。「世界を変えるなんて子供っぽい夢物語」という見方もあると思うが、そのような見方こそ「子供っぽい」と思う。それは、世界が変えられないと思うのは、スイッチを切り替えたような変化を想定しているからではないか。世界は、まれにそのように変わることがあるが(かつてのソ連崩壊を見よ、今回のエジプトの民主化革命を見よ)、実際は、徐々にゆっくりと変わっていく。短期的には何も変わっていないように見えても、50年100年というスケールで見ればその変化は明らかだろう。それは一人の一人の人間が願った、努力した方向とは必ずしも一致はしないと思うが、しかし無関係でもないだろう。結局世界を構成しているのは個人なんだから、個人個人の生き方のベクトルを総合したものが世界のベクトルとなる。個人が誰かに思いやりを示すことが、世界を思いやることであり、個人が誰かを傷つけることが世界を傷つけることであると思う。

話が、だいぶ脱線した。世界を変えることに興味がある方は、ぜひご一読を。
posted by kunio at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2011年01月16日

村上春樹『うずまき猫のみつけた』

uzumakineko.jpg

米国での生活の日々をつづったエッセイ集。安西水丸のほのぼのとした(ちょっと毒気あり)イラストと、「奥さん」の村上陽子さんの撮った写真入り。著者の目を通して見えるアメリカ、日本がユーモラスに描かれていて、猫の話などもたくさん出てきて、なんともいえず楽しい読書でありました。(ふと思ったのだが、「描」と「猫」って、ほんのちょっとしか違わないな)

付録として、巻末に村上春樹と安西水丸の寿司屋談義が掲載されているのだが、これに爆笑。食べてからやるか、やってから食べるか、みたいな話があって、先にやるものだという村上春樹のほうに共感したのでありました。


我が家のうずまき猫↓


s-s-110116-113835.jpg
posted by kunio at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2010年11月26日

『父と暮せば』井上ひさし著、こまつ座出版部

スキャン0001.jpg

井上ひさしの戯曲『父と暮せば』を読んだ。隅々まで計算しつくされた完璧な戯曲、といったら褒めすぎだろうか。素晴らしい作品だと思う。映画のほうは2008年に観ているのだが、原作をかなり忠実に、そして原作の良さを損なうことなく映画としての魅力もしっかり持たせた作品なのだということも、よくわかった。

ちなみに今回読んだのはロシア語との対訳版なのである(もちろん実際に読むのは日本語の側のページだが)。訳者は米原万里。井上ひさしから見て米原万里は義姉ということになるのだが、故人となった二人のコラボレーションがこのようにして残っていることに、若干の慰めを覚える。

広島では、いまも「おとったん」と言ったりするのだろうか?
posted by kunio at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2010年11月20日

『兆民先生・兆民先生行状記』幸徳秋水著、岩波書店

 中江兆民の愛弟子・幸徳秋水による師の伝記。兆民宅に寓居していた時期もある秋水が間近に見た思想家兆民の愛すべき人となりが記されている。
 理想を目指して奮闘した兆民の姿を評して、秋水は次のように述べる。「然り、先生は遂にその理想を棄るあたはざるがために敗れたりき。政治家として然り、文士として然り、実業家としてことに然り。」(p.26)
 兆民が幸徳に「秋水」の名を与える場面も印象深い。「而して先生亦自らその処世に拙なる所以を知れり。酒間笑って予に曰く、今朝来訪せし所の高利貸を見よ、彼の因循にして不得要領なる、人をして煩悶に堪えざらしむ。然れども彼れ甚だ富めり。処世の秘訣は朦朧たるに在り。汝義理明白にすぐ、宜しく春藹(しゅんあい=春のかすみ)の二字を以て雅号と為せと、予曰く、生はなはだ朦朧を憎む、乞う別に選む所あれ。先生益々笑ふて曰く、然らば秋水の二字を用ゐよ、是れまさに春藹の意と相反す。予壮時この号を用ゆ、今汝に与へんと。」(p.38)――二人の気の置けない関係と師弟愛が感じられるエピソードではないか。
posted by kunio at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学

2010年11月13日

紙の本はなくならない

 仕事が一段落ついたので印刷博物館で開催中の「世界のブックデザイン2009-10」を覗いてきた。日本、中国、ドイツ、スイス、フランス、オランダ、オーストラリアといった国々のブックデザインコンクールの受賞作品の展覧会だ。
 美しい本の数々を手に取りページを開いてみて思うことは、一冊の紙の本には、表紙や本体の紙の手触り、色合い、視覚を誘う造形、持ち重りする感じなど、さまざまな魅力が有機的に重なり合っているということ。このようにモノとしての魅力がある存在がなくなることはないだろう。大半の本が電子書籍として出版される時代になったとしても(今年は電子書籍元年とも言われているようだが)、紙の本がまったく作られなくなるということはないと僕は確信する。
 ただし、もしかしたら、それはぜいたく品のような位置づけのものになってしまうのかもしれない。そうなったとき、ブックデザインや製本の技術が衰退していくということは起こりうることだろう。そんなことを感じつつ会場をあとにした。
posted by kunio at 02:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・文学

2010年10月30日

『躁病見聞録』加藤達夫著、幻冬舎文庫

 躁うつ病を患う当事者による、躁の時期の行動や内面の詳細な記録。攻撃的になったり後先考えない無茶な買い物をしたり、トラブルの連続の日々。オーストラリアから強制送還され、帰国途中のタイで逃亡し、そこでもトラブルを起こして留置場に入れられ、留置場内でも犯罪者グループのボスにたてつき――まあよく死なずに済んだものだ。
 その行動のハチャメチャぶりや妄想の暴走ぶりは恐ろしいのだが、他面、読んでいてエネルギッシュな疾走感や爽快感を覚えるのも事実で、個性的な青春記といえなくもない。解説は香山リカ。
posted by kunio at 12:42| Comment(3) | TrackBack(0) | 本・文学