2015年06月02日

『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』水村美苗著、ちくま文庫

水村美苗著『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(ちくま文庫)読了。面白かったし、蒙を啓かれるところ多かった。海外生活の長い女性作家による日本語論、という外部情報だけから、超復古的トンデモ本的に仕分けてしまうかたもいるかもしれないが、けしてそのたぐいではなく、時間的にも空間的にも広く深く言語・言葉のありかたについて考察した、理性的で説得力のある内容。

本書のなかでは小さな枝葉の記述だが、ひとつハッとさせられた箇所があった。370ページの「当用漢字」についてのくだりだ。いま、ライター、記者、公務として文章を書く人などはみな、使用する漢字については「常用漢字」を意識しているはずだが、「常用漢字」の前は「当用漢字」というものがあって、僕が子供のころはそれを習った。この「当用」の意味が、「漢字の全面的な廃止が政府決定されるまでのあいだ、当面使用される漢字」ということだったというのだ。

恐ろしや恐ろしや。
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2015年05月13日

『日本文学全集01 古事記』池澤夏樹訳、河出書房新社

たまには本のことも書こうと思う。
池澤夏樹編集で日本文学全集の刊行が始まっている。その第一巻目『古事記』を読んでみた。池澤自身が現代語に訳したもの。恥ずかしながら古事記を読んだのは初めてのことなので、本書が他の現代語訳などと比べてどうこうというようなことより、「古事記ってこんな内容なのか」という驚きや面白さがあった。一言でいうと、神々による天地創造の時代から歴史時代(聖徳太子あたりまで)に至るまでの天皇の系譜の物語を中心とした神話的物語集なのだが、古代のおおらかさやストレートさにたまげるんだなあ。ちょっとしたことであっさり家族や親戚を殺してしまったり、天皇が旅先で出会う娘を次々に妻にしたり……。
登場する地名が現代の地名につながるものであるのも、親しみを覚える。ほとんどは九州や関西、東海あたりのものだが、少しだけ関東の地名も登場する。ヤマトタケルの話のなかでは、いま僕が住んでいる地域の地名も登場するので、このあたりをもしかしたらヤマトタケルが通ったのかもしれない、などと思うと不思議な感じがする。西日本の方は、身近な地名がバンバン登場するので、もっと楽しめるのではないだろうか。
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2014年01月16日

『路上』ジャック・ケルアック著、福田実訳、河出文庫

去年、映画『オン・ザ・ロード』が公開されていたので、原作の古本を入手したのだが、原作を読んですぐ映画を観る、あるいは映画を観てする原作を読む、というもくろみのどちらも実現できずに年を越し、やっと読み終えた。本はとてもよかった。400ページを超えるこの長さは、読書を通じて長い旅を疑似体験するのに必要なものだったろう。この小説に満ちている漂流と狂騒の感覚が映像でどう表現されているのか、いつか映画を観てぜひとも確認したい。
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2013年10月23日

小林秀雄

「アシルと亀の子1」にこういうくだりがある。

「元来文芸批評というものが、人間情熱の表現形式である点で、詩や小説といささかも異なったものではないのである。」

「小林秀雄全作品」という全集の第一巻「様々なる意匠」を読んでいて出くわした言葉なのだが、小林の評論がまさに「人間情熱の表現」という印象を与えるものなので、僕は大いに納得した。
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2013年04月22日

『八月の光』フォークナー著、新潮文庫

二十世紀初頭の米国南部の田舎町に交差する何人かの男女の人生の局面を、それぞれの過去も織り交ぜながら描いた作品。この言葉はあまり使いたくないのだが、運命としかいいようのない袋小路へと入り込んでいくそれぞれの人生が重く切ない。
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2013年04月13日

『嵐のピクニック』本谷有希子著、講談社

第7回大江健三郎賞受賞作の短編集。いずれの作品も、あるシュールな設定、あるいは、ある一つのイメージを核に、そこから想像を広げて作られた物語といってよいと思う。手法としては、かつて日本のSF作家たちが盛んに用いたものだ。それをどう書くかが作者のセンスや力量の問われるところだ。本谷有希子の場合、たんに「面白い」「不思議」で終わらない何かが残る。大江さんもそこを評価したのだろう。
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2013年04月11日

『かわいそうだね?』綿矢りさ著、文藝春秋

昨年の(第6回の)大江健三郎賞の『かわいそうだね?』を、いまごろ読了。収録された「かわいそうだね?」と「亜美ちゃんは美人」はどちらも、ユーモアを散りばめつつも文学らしい奥行きを備えていて面白かったんだけども、その何割かは、「女の世界とはこういうものか」という男性読者としての物珍しさであったのかもしれない。
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2013年03月26日

『火山のふもとで』松家仁之著、新潮社

雑誌「考える人」「芸術新潮」の元編集長が新潮社退社後に発表した作品。小説を読むのはいいものだとしみじみ思わされた。

内容は、都内の設計事務所が夏場の事務所として使っている「夏の家」と呼ばれる軽井沢の別荘での日々を、入所したばかりの若者の視点で描いたもの。所長である老建築家、それを支えるベテラン、中堅、同世代の女性所員といったメンバーのなかで、しだいになじんでいく主人公に感情移入して、ひと夏を軽井沢で過ごしたような気分になれる。女性所員と恋をした気分になれる。建築の世界に足を踏み入れた気分になれる。まあ小説っていうのは、そういうものだよな。

この事務所は、規模こそ小さいが、所長はワールドクラスの建築家で、スタッフたちも優秀。それぞれが独自の建築哲学を持っており、それがちょっとした一言にも現れる。そのあたりの描写がじつに素晴らしく、(本当の建築家がどういうものかは知らないけれども)説得力があって、建築の世界を覗きこむ面白さがある。それぞれの自家用車がボルボだのベンツだのルノーだの、と外車ばかりで、出てくる食事もなじみのないカタカナ食材カタカナ料理。でも、それが別段嫌味な感じがしないのは、世界のなかで仕事をする一流の建築家やその周辺の人々の描写にリアリティがあるからだろうか。

小説のおもな部分は80年代初期のひと夏に焦点を当てているのだが、挿入されるエピソードによって老建築家の生涯全体を振り返る要素もあり、また主人公の「その後」も描かれており、人の生涯すなわち、どのように仕事をするか、どのように人と愛し合うか、どのように生きるか、といったことも考えさせられる。これもまた、良い小説が必ず投げかけてくる問いかもしれないな。
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2013年03月17日

『金曜官邸前抗議 デモの声が政治を変える』野間易通著、河出書房新社

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総理官邸前で毎週金曜日に行われている脱原発を求める抗議集会。最初は300人ほどでスタートしたこの活動は、政府が脱原発から離れていくのに反比例するように参加者が増え、2012年6月29日には何万人もの人々が官邸周辺に溢れた。官邸前が人で埋め尽くされるというのは60年安保闘争以来というし、そのような運動の代表者と時の総理が面会した(2012年8月22日)というのも前例のないことだ。それは達成というよりは、主催者の一人ミサオ・レッドウルフ氏が述べるように「通過点に過ぎない」のだが、そのような事象を導いたこの抗議活動が画期的であることは間違いない。本書はこの画期的な抗議活動を支えるスタッフの一人による貴重な記録である。

この集会では、一画にスピーチエリアが設けられ、さまざまな人たちが短いスピーチをするのだが、本書巻末には、その抜粋が掲載されている。集会に参加したことのない方には、ぜひこの部分に目を通してもらいたい。ごく普通の人たちが、やむにやまれぬ思いで参加しているということがわかってもらえると思う。ひとつだけ、大熊町から避難している女性のスピーチをここに引用しておこう。

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福島第一原発の地元、大熊町から避難している。原発から7kmのところに新築して入居できなかった自宅を置いてきた。この1年のあいだに私たちはどれほど振り回され、分断されたか。とてもこの気持ちを言い表せない。怒る元気もない。うちの年間推定放射線量は、99ミリシーベルトです。「100ミリは超えないので安全だ」と言う人がいる。どうぞ我が家を貸します。警戒区域に、国会でも民主党本部でも移して、そこで決めたらいい。
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ところで、このような集会やデモは、果たして効果があるものなのか。著者の野間氏は「実を言えばこの問いは、デモをやっている側も常に自問自答している」という。政治は複雑な要素が絡んで動いていくものだろうから、デモの効果を検証するのは容易なことではないと思う。しかし、少なくともこの官邸前抗議に関しては、効果があったし、これからも影響を及ぼしていくといってよいのではないだろうか。少し長くなるが、それに関する記述を引用しておきたい。

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もし金曜官邸前がなかったら、いまごろもっとたくさんの原発が再稼働されていたはずだ、ということはよく言われる。再稼働を2基にとどめているのは、官邸前にあれだけ人が集まっているからだ、と。
「集まっている人が思っている以上に、官邸前に何万人も毎週来るってことが、ものすごいプレッシャーになっていたことは確かです」
そう断定するのは、小熊英二だ。
「僕は金曜夜はたいていドラム隊と一緒に霞ヶ関を回ってますけど、官僚は気にしてますよ。いやがってます、はっきり言って(笑)。それに敵は一枚岩じゃない。民主党のなかに脱原発派がいるように、経産省だろうが文科省だろうが、あらゆる組織には反主流派がいるんです。反主流派は表だって組織の方針に反することを言えない場合が多いけれど、『こんなに人が来ていますよ、考え直したほうがいいんじゃないですか?』というふうに、院外圧力を借りて政治を動かそうとする。決定が公表済みの政策課題を動かすのは容易ではないですが、まだ水面下で検討中の課題にはけっこう影響する。大飯原発がすぐに止まらなくても、官邸前デモが2012年夏に検討中だった中長期のエネルギー政策に影響したことは明らかです。経団連の意向に反するような政策を公表させたわけですからね。いうなれば、2012年夏の局面に限っていえば、官邸前デモは経団連に勝ったんですよ」
元経産省大臣官房付の古賀茂明もまた、『SIGHT』(53号)のインタビューでこう語っている。
「あんなことやってもただの自己満足じゃないかとか、いろいろ批判している人たちもいますけど、そんなことはなくて、官邸はあれをものすごく気にしているわけですよ。この間(8月22日)も、デモの中心の人たちに、首相が会ったじゃないですか。あれも、ポーズだとか、総理がただ従来の方針を述べただけじゃないかとか言う人もいるけど、会うっていうことが異常ですよ。異例というよりも異常。要するに、官邸前に数を集めれば総理と面会できる、っていう前例を作っちゃったわけですから」
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さて、本書から離れてしまうのだが、菅直人元首相のインタビューが「現代思想」2013年3月号に掲載されている。聞き手は、上に名前の出ている小熊英二氏である。小熊氏は、震災直後の原発事故への政府の対応についても質問していて、それはそれで非常に興味深いのだが、デモの効果についても詳しく訊ねている。一部を引用したい。

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小熊 官邸前の抗議行動は、政権や民主党に対してプレッシャーになったのでしょうか。

 当然影響をあたえていたと思います。理由の一つは、衆議院選挙が迫っていたことです。選挙の実施日程は決まっていませんでしたが、いずれにしても任期満了までは半年余りを残すばかりでした。私はエネルギー環境調査会では、脱原発を選挙で争点化するための民主党の姿勢を決めたいと考えていたのです。脱原発を次の選挙の大きな争点とするべきだということは、私だけでなくかなりの民主党議員が思っていたことです。そういう背景がありましたから、多くの国民の声があがっているという事実は、いろいろな影響をあたえていたと思います。

(中略)

小熊 七月には「さようなら原発1000万人アクション」が主催した代々木公園の集会に17万人が集まりました。また八月には、パブリックコメントと討論型世論調査も行われ、原発ゼロの意見が多数を占めました。
パブリックコメントについては、『世界』2013年1月号の、下村健一内閣参与のインタビューが触れています。それによると、原発ゼロの意見の数以上に、組織の指令で送ってきたと思われる判で押したような文言ではなく、一通一通のコメントがよく考えられた自分の言葉だったことに効果があったという。一人ひとりの真剣さが伝わってきて、チェックする身としても、感じるところが非常に大きかったということです。これは別の担当官僚からも聞いたことでもあります。それらの影響はどのくらいありましたか。

 パブリックコメント、あるいは曽根泰教さんがされた討論型世論調査は、非常に大きな影響力を持ちました。そこに到るまではいろいろな問題があり、とくに公聴会では原発依存度0パーセント、15パーセント、25パーセントという、事前に経産省が設けた選択肢ごとに均等に人を割り振ったことには、強い批判も受けました。こうした問題を徐々に是正しつつ、最終的には8割近い人が原発ゼロを支持することが明らかになったわけです。街頭の運動に合わせて、行政も絡んで中立的に行ったこれらの調査でも、明確な脱原発を望む国民の意識が示されたのは、とても大きな出来事でした。私や多くの民主党議員が、次の総選挙で原発をめぐる問題は大きな争点となるだろうと考え、脱原発を党内議論で強く主張できたのは、こうした結果もあったからです。
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ということだ。声を上げよう。効果はあるんだから。



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2013年03月07日

『アメリカほ本当に「貧困大国」なのか?』冷泉彰彦著、阪急コミュニケーションズ

初めてキンドルでアマゾンから本を購入した。アンドロイドのスマートホンとiPadにキンドルのアプリを入れたのだが、どちらでも読めるし、どっちの端末で開いてもちゃんと、読んでいた箇所が自動的に表示される。おもにスマホのほうで読んだのだけど、スマホで本が読めるというのは、なかなか快適だということもわかった。ただ、モノとして本が手元に存在しないというのは、どこか不安感というか物足りなさというか、そういう感じはある。読んだ本を、「これ面白かったよ」と人に手渡しできないし、ページに折り目を付けたり傍線を引いたり(僕はよくやる)ということもできない。紙の本よりもだいぶ安価なので、さっと読みたい本についてはこれからもキンドルを利用するかもしれないが、これをメインにしようというところまではまだ踏み切れない気がする。

さて、本の内容のほうだが、これはまず堤未果の『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)への反論として書かれている。堤氏が提示してみせた貧困や格差は、米国の一面に過ぎない。格差がある一方、機会均等の確保のために多大な努力がなされている。その両面を見なければ、米国の実相は捉えられない。ということのようだ。ルポというのは、そもそも全体像を示すものではなく、一つの視点に立って現実のある部分を切り取って見せるものだろうから、堤氏のやり方が間違っているとは言えないと思うのだが、米国そのものを知るという意味では、本書のように別の観点にも触れることは必要であろう。

本書では、オバマ大統領にもスポットを当てている。オバマの政策や、ときどきのメッセージなどから、オバマの思想を読み解く。保険制度改革を実現するための奮闘のくだりはエキサイティングといっていい内容。一方、反オバマ的な立場となる草の根保守やティーパーティー運動を支える人々の心情を考察する。このあたりは、非常に興味深く、また説得力があった。米国に長く在住しながらかの国を見つめてきた冷泉氏の真骨頂と思う。

余談になるけれど、オバマについての記述を読みながら感じたことがある。それは米国の大統領にしろ、日本の首相にしろ、国民は国のトップが大胆に力強くなにかをやってくれることを期待しがちだけれど、独裁国家でない以上、トップといえども権力基盤が許容する範囲のことしかできないということだ。トップに立つということは、特定の立場の支持だけでは実現しないわけで、どうしても幅広い、いろいろな立場からの支持が必要で、その複数の支持のうえに微妙なバランスで立つのが、民主国家の指導者の姿だろうと思う。個人的にいくら「これをしたい」という理想があっても、それをしようしたとたん失脚してしまう。そういうものなのではないだろうか。逆に言うと、国民が政治家に何かをしてもらいたければ、その政治家がそれをしても失脚しないだけの、大きな国民的支持を与えるしかないのかもしれない。
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2012年12月03日

『日本の思想』丸山真男著、岩波新書

「日本の思想」「近代日本の思想と文学」「思想のあり方について」「「である」ことと「する」こと」の4編からなる評論集。一番の面白かったのは、日本の思想のあり方を歴史的かつグローバルな視点から俯瞰した、表題作である「日本の思想」。彼の問題意識は、いまの僕らにとっても有効というか、本書で指摘されている状況は、21世紀の日本においてもそのまま当てはまる。むしろ、たとえばいまの政治状況を眺めるに、その根底にある問題が、1961年に刊行された本書ですでに指摘されている、と思えるのだ。

丸山は、こう述べる。「あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関連性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で――否定を通じてでも――自己を歴史的に位置付けるような中核あるいは座標軸に当たる思想的伝統はわが国には形成されなかった」

いやいや、儒教、仏教、神道といったものが日本の伝統思想としてあるではないか、という声がすぐ出てくると思うが、それらは伝統思想であっても、「中核あるいは座標軸」に役割を果たしていないというのが丸山の主張だ。彼はこう書いている。「私達の思考や発想の様式をいろいろな要素に分解し、それぞれの系譜をたどるならば、仏教的なもの、儒教的なもの、シャーマニズム的なもの、西欧的なもの――要するに私達の歴史にその足跡を印したあらゆる思想の断片に行き当たるであろう。問題はそれらがみな雑然と同居し、相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていないところにある。そうした基本的なあり方の点では、いわゆる「伝統」思想も明治以降のヨーロッパ思想も、本質的なちがいは見出されない。近代日本が維新前までの思想的遺産をすてて「欧化」したことが繰り返し慨嘆される(そういう慨嘆もまた明治以後今日までステロタイプ化している)けれども、もし何百年の背景をもつ「伝統」思想が本当に遺産として伝統化していたならば、そのようにたわいもなく「欧化」の怒涛に呑みこまれることがどうして起こりえたであろう。」(太字は引用者による。以下同様)

そういう思想のあり方の結果としてどういうことが起きるか。
「一定の時間的順序で入って来たいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、かえってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。それは直接には歴史的発展という考え方にたいする、あるいはヨリ正確には発展思想の日本への移植形態にたいする一貫した拒否の態度と結びついているが、すくなくも日本の、また日本人の精神生活における思想の「継起」のパターンに関するかぎり、彼の命題はある核心をついている。新たなもの、本来異質なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずにかたわらに押しやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる」
「これは特に国家的、政治的危機の場合にいちじるしい。日本社会あるいは個人の内面生活における「伝統」への思想的復帰は、いってみれば、人間がびっくりした時に長く使用しない国訛りが急に口から飛び出すような形でしばしば行われる。その一秒前まで普通に使っていた言葉とまったく内的な関連なしに、突如として「噴出」するのである。(近代史の思想的事件として、たとえば維新の際の廃仏毀釈、明治十四年前後の儒教復活、昭和十年の天皇機関説問題など。)」

この思想的座標軸の不在が、明治の国家建設において重大な意味を持つこととなる。帝国憲法草案審議の席で議長の伊藤博文は、ヨーロッパのような憲政の伝統や人心を統合する宗教が日本になく、国家の機軸になるものがないということを述べ、「我国にあって機軸とすべきは、ひとり皇室あるのみ」と断ずる。このことを紹介したうえで丸山は次のように述べる。

「「国体」という名でよばれた非宗教的宗教がどのように魔術的な力をふるまったか」「かつて東大で教べんをとっていたE・レーデラーは、その著『日本=ヨーロッパ』のなかで在日中に見聞してショックを受けた二つの事件を語っている。一つは大正十二年末に起こった難波大助の摂政宮狙撃事件である。彼がショックを受けたのは、この狂熱主義者の行為そのものよりも、むしろ「その後に来るもの」であった。内閣は辞職し、警視総監から道すじの警固にあたった警官にいたる一連の「責任者」(とうていその凶行を阻止し得る位置にいなかったことを著者は強調している)の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞の徒をかつて教育した責を負って職を辞したのである。このようなぼうとして果てしない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力は、このドイツ人教授の眼には全く異様な光景として映ったようである。もう一つ、彼があげているのは(おそらく大震災の時のことであろう)、「御真影」を燃えさかる炎の中から取り出そうとして多くの学校長が命を失ったことである。「進歩的なサークルからはこのように危険な御真影は学校から遠ざけたほうがよいという提議が起こった。校長を焼死させるよりはむしろ写真を焼いたほうがよいというようなことは全く問題にならなかった」とレーデラーは誌している。日本の天皇制はたしかにツァーリズムほど権力行使に無慈悲ではなかったかもしれない。しかし西欧君主制はもとより、正統教会と結合した帝政ロシアにおいても、社会的責任のこのようなあり方は到底考えられなかったであろう。どちらがましかというのではない。ここに伏在する問題は近代日本の「精神」にも「機構」にもけっして無縁ではなく、また例外的でもないというのである。」

このような責任のあり方は、上流においては逆に責任の所在をあいまいにする形となっている。「明治憲法において「殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など超憲法的存在の媒介によらないでは国家意思が一元化されないような体制が作られたことも、決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為関連を好む行動様式が冥々に作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の正統性の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。さきにのべた無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。」

これは明治憲法下の話ではあるけれど、「無限責任のきびしい倫理」であるとか「巨大な無責任」という現象は、いまのこの国にもそのまま残されているように思うのは僕だけだろうか。
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2012年07月21日

『俺と仲間 ロン・ウッド自伝』ロニー・ウッド著、五十嵐正訳、シンコーミュージック・エンタテインメント刊

ロン・ウッドの自伝。キース・リチャーズと同じレベルのハチャメチャなロックンロールライフが描かれている。ジミー・ページが加入する前、レッド・ツェッペリンへの加入を打診されていたこと、ロッド・スチュワートとの関係、パティ・ボイドとのロマンスなど、ロック史の表裏をめぐるエピソードもたっぷり。楽しい本であった。

ただ、翻訳の質がいま一つで、脱字や編集ミスも目に付いた。

インデックスがあるのは、ありがたい。参照の便を考えると、この手の本では必須だろう。
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2012年06月16日

『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』日本再建イニシアティブ編

東日本大震災、そしてそれに伴って起きた福島原発事故は、僕がこれまでの人生で経験した最大の出来事であり、間違いなく歴史に刻まれることがらだろう。復興も原発事故処理もまだ進行中であるから、「経験した」と過去形で語ることは抵抗があるものの、ともあれこの人生最大の出来事について、もっとよく把握したいと思う。そういう思いで入手したのが本書。

これは、いわゆる民間事故調の報告書。民間有志により構成された福島原発事故独立検証委員会メンバーを中心に書かれたものた。報告書としては東電によるものと、国会によるものとが作られているときく。三者のなかで民間事故調は、事業者でも国でもないもっとも客観的立場での調査報告といってよいのではないかと思う。

プロジェクトを立ち上げた一人、船橋洋一は、序章で次のように書いている。

「民間事故調の民間事故調たる所以は、東京電力と政府が、原発の過酷事故に際して、「国民を守る」責任をどのように、どこまで果たしたか、そこを検証することに尽きる。とくに原発を国策として進めてきた政府の責任の在処を明確にすることだ。」p.12

そのために「どこかの大学や財団やシンクタンクにアイデアを持ち込むことはしない。いつ、どこから、どんな邪魔がはいるか分からないから」と船橋は考えた。「調査・検証する対象は、原子力であり電力会社であり原子力産業です。産官学のそれこそ“原子力ムラ”と呼ばれる巨大システムです。政治にも行政にも大学にも法曹界にもメディアにもその影響力は浸透しています。」

それが決して妄想や杞憂などではないことは、福島原発の事故原因の究明や、他の原発の安全対策が不完全なままで、国民の反対の声を無視して原発再稼働へと不可解なほど前のめりに進んでいる野田内閣の姿を見ても明らかだろう。

本書からわかることは、東京電力も政府も、自らが広めた「安全神話」を、いつしか自分たちも盲信し、それに足をすくいとられた。当然しておくべき備えがなされていなかったということだ。強い地震や大きな津波の危険性、全電源喪失の可能性は、事故以前に指摘されていた。安全対策を強化する機会は何度かあったのに、してこなかった。

「この調査中、政府の原子力安全関係の元高官や東京電力元経営陣は異口同音に「安全対策が不十分であることの問題意識は存在した。しかし、自分一人が流れに掉さしてもことは変わらなかったであろう」と述べていました。じょじょに作り上げられた「安全神話」の舞台の上で、すべての関係者が「その場の空気を読んで、組織が困るかもしれないことは発言せず、流れに沿って行動する」態度をとるようになったということです。これは日本社会独特の特性であると解説する人もいます。しかし、もしも「空気を読む」ことが日本社会では不可避であるとすれば、そのような社会は原子力のようなリスクの高い大型で複雑な技術を安全に運営する資格はありません。」p.7

いま野田政権は大飯原発を再稼働させようとしている。いやま反原発の闘士として著名な俳優の山本太郎は、そのありさまを「安全神話第二章」と揶揄した(2012年6月15日官邸前集会)。そう、確かに、原子力ムラも「安全神話」もまだ健在のようだ。どんな国にとっても、事故のリスクや核廃棄物の処理の問題などを考えれば、原発は賢い選択ではないと思われるが、大事故にも懲りずに「安全神話第二章」の扉を開こうとしているこの国には、さらに危険な選択だろう。
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2012年06月02日

『複雑さと共に暮らす デザインの挑戦』D・A・ノーマン著、新曜社

『誰のためのデザイン』『パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう!』など、モノのデザインやヒューマンインターフェースに関する著作で知られているノーマンの新著(といっても2011年8月の刊行だが)。アフォーダンスの概念を一般に知らしめたのがこの人だ(ただし、誤解された広まってしまったと本書で著者は述べている)。

本書のテーマは、この世界が複雑なものである以上、複雑さをもった製品の存在も避けがたい。排除すべきなのは、複雑さではなく、分かりにくさだ。複雑でも分かりやすいものもあり、単純でも分かりにくいものもある。複雑さと分かりにくさは別のことなのである、というようなこと。

デザイン、UI、TCなどの分野で仕事をする人にとって示唆に富む本ではあるが、これを仕事に活かすとなると、それなりの努力と才能が必要だろうなあ。

マニュアルとテクニカルライターに関する記述があるので、少し長くなるが引用しておこう。p.270にある「学習の補助」というところだ。

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 製品の仕組みを説明する従来の方法は、インストラクションマニュアルによるものだ。しかし、それらのほとんどは価値がない。人は読もうともしない。マニュアルを読まない理由の一つは動機の欠如だ。退屈でつまらないマニュアルを誰が読みたいと思うだろう。どうしてさっさと始めないのか。人は新しい製品やサービスを最初に使ったときに、すでに達成すべき目的を何か持っているのだ。その目的に達したいのであって、マニュアルを読むことは迂回のように見える。
 ほとんどの人は「ジャストインタイム(ちょうどそのとき)」の学びを望んでいる。人は学ぶ必要があるとき学ぶのがベストだ。論理的には、必要性が生じる前に教示が来るべきだ(このように理論では、何をするかを予め知っているとされている)が、必要性が生まれる前には学ぶ興味はほとんどない。
 多くのマニュアルは、製品の機能を、ときにはアルファベット順で、制御ボタンや機能が何であるかについて細かくすべて列挙しようとする。このことは、動機とジャストインタイム学習の両方の原理に反している。最良の説明法は、使用される文脈で、特定のタスクがどのようにできるかを示しながら、説明することだ。教示は、なすべきタスクに焦点を当てたものでなければならない。たしかに、機能を完全に記述する必要性はあるが、これは付録に置くのがせいぜいだ。そして、必要に応じて参照できればよい。主要な学習ツールではけっしてない。
 人は行動から学ぶ。話でこうすべきと言うことは、やっているときにコーチするほど有効ではない。たしかに、これは多くの製品やサービスではあまり実用的なことではないが、優れた代替案として短いビデオデモがある(「短い」を強調しておく)。ビデオは、抽象的な記述としてではなく、具体的な行為として文脈における操作を示すことができるので、理解が容易になる。ビデオは簡潔で要点をついたものでなければならない。十分から三十分のビデオが多くの操作をデモするのに充分である。しかし、ビデオはタスクの実際のデモでなければならず、製品を売ろうとしたり、できるすべての機能を示すようなものであってはならない。後者のようなビデオは非生産的である。
 マニュアルはすばやく効率的な教示素材としてとっておくのがよい。短いデモにチュートリアル、そして最後に、より進んだ知識を求める人のために、すべての機能とオプションの趣旨に関する完璧な記述をできるだけイラスト付きで用意する。会社が法律的な注意、その他の要素を含めることが必要なら、製品の快適なエクスペリエンスを邪魔することにならないように、どこか他の場所に置くのがよい。マニュアルは製品の不可欠な部分というよりも、高価なおまけだとメーカーは考えることが多い。そこで、最後まで放っておかれ、急いで制作され、アクセスするのも使うのも難しくなるにもかかわらずコスト軽減のために電子的に配布される。マニュアルを書いている人たちはこの問題をよく知っているが、この状況を変えるほどの権限は持っていない。
 しかし、良いマニュアルよりもさらに優れているのは、マニュアルを必要としないシステムである。マニュアルを必要としない製品をデザインするのに手助けできる最善の人は、マニュアルを書いているテクニカルライターだ。彼らは製品に直面する人々の困難を知っている。製品を説明するのがいかに難しいかを知っている。自己説明的ではないまでも、説明が容易な製品をデザインするのを手助けできる。
 最良の製品は最良のエクスペリエンスをもたらすものだということを会社は認識すべきだ。せっかくの素晴らしいエクスペリエンスを、なぜ起こり得る危険性や法的な注意事項などを強調したマニュアルで台無しにしてしまうのだろうか? 製品が約束している素晴らしいことすべてをどのように成し遂げるかを示す方がはるかに有効なときに、どうしてエクスペリエンスを機能の、退屈でうんざりする一覧で台無しにしてしまうのだろうか? マニュアルを、簡潔で生産的でエクスペリエンスの本質的な部分だけのものにしよう。
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『なつかしいひと』平松洋子著、新潮社

エッセイストでフードジャーナリストである著者のエッセイ集。日常生活の細部や、食のことなどを取り上げている。伊丹十三のことが書かれているらしいということで読んでみたのだが、載っていたのは伊丹十三の『女たちよ!』の書評であった。残念ながら、全体的に僕にはフィットしなかった。なんだろうなあ。上手なんだけども、上手という以上の印象が残らない。女性が読めば、また違うのかもしれない、とも思う。
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2011年11月09日

『一九七二』坪内祐三著、文春文庫

1958年生まれの著者が、1972年前後を戦後日本の変曲点と捉え、当時の政治、文化、風俗をそのころの出版物(新聞、雑誌、書籍など)から広範に傍証を引きつつ自身の回顧も織り交ぜながら、時代の変化を浮き彫りにするノンフィクション。

連合赤軍事件があり、札幌オリンピックがあり、ニクソンが北京を突如訪問し、田中角栄が日本列島改造論を打ち上げ首相の座についた1972年。「高度成長期の大きな文化変動は1964年に始まり、1968年をピークに、1972年に完了する」「1972年こそは、ひとつの時代の「はじまりのおわり」であり、「おわりのはじまり」でもある」と著者は語る。さらに「私は、「はじまりのおわり」である1972年以前に生まれた人となら、たぶん、歴史意識を共有出来る気がする。だが、それよりあとに生まれた人たちとは、歴史に対する断絶がある。たぶん」とまで言う。

1961年生まれで著者の3つ下である僕は、ほぼ重なる時代を生きてきたわけで、たとえば情報誌「ぴあ」に関する記述であるとか、佐藤栄作や田中角栄に対する心情であるとか、共有できるものが多く、そういう意味で、なんだかとても懐かしい思いに浸らされた本だった。ただ、どうもカタログ的に時代の時事を並べて見せているという感じで、500ページ近い分量でありながら、喰い足りないという印象も残った。

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2011年11月02日

『Kylie: La la la』カイリー・ミノーグ、ウィリアム・ベイカー著

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カイリー・ミノーグと、彼女のゲイハズバンドにしてアートディレクターを務めるウィリアム・ベイカーの共著。カイリーの文章はすべて手書きで、ベイカーの文章も文字が小さく、通読は断念せざるを得なかった。ただ、多数掲載されている写真(プライベートのものも多い)を眺めるだけでもファンとしては楽しい。

マイケル・ハッチェンスとのことが書かれていたので、簡単に紹介しておこう。

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カイリーにとってマイケルは、大人になってからの初めての本当の恋人であり、彼が他界して長い時間が経ったいまも、カイリーはマイケルの存在をそばに感じ、彼に守られているように感じるという。彼女は、成長した彼女のことをマイケルが誇りに思ってくれることを願っている。

ベイカーは毎朝、カイリーに電話をして、その日の予定やら雑談やらを話すのが習慣だという。ある土曜日の朝、カイリーに電話すると、カイリーは電話口でむせび泣いていた。マイケルがシドニーのホテルで亡くなっているのが発見されたのだ。彼女は打ちひしがれていた。ベイカーは、何も言葉を発することができなかった…。

しかし、その夜のショーをカイリーはキャンセルしなかった。Show must go on。彼女の辞書に「キャンセル」の言葉はないかのようだ。
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2011年10月16日

『キース・リチャーズ自伝 ライフ』キース・リチャーズ、ジェームズ・フォックス著、棚橋志行訳、楓書店

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ローリングストーンズのギタリスト、キース・リチャージの自伝。エリック・クラプトン、パティ・ボイド、ジェイソン・ドノバンの自伝にも感じたことだが、彼らは驚くほど率直に、あけすけに人生を語る。とりわけキースは、ドラッグ、女性関係、暴力、各種の違法行為、ミック・ジャガーとの愛憎関係などをストレートに語っており、そのことだけでも敬意を覚えずにいられない。本当のことを語るということについて、何か使命感でもあるのだろうか。稀有な経験をしてきた人間として、事実を語っておかなければならないという義務感があるのかもしれない。

キース・リチャーズは60年代の初めから現在に至るまで半世紀に渡って、ストーンズのメンバーとして、ロックの誕生と成長と変遷との中にずっといた人間だ。彼には、ファンやマスコミが貼り付けた、ロックにまつわるありとあらゆるゴシップ、幻想、妄想、伝説がまとわりついている。それが実際はどうだったのか、当の本人はどういう人生を送ってきたのか、それが本書ではつまびらかにされている。それは、ある面では、想像とは違っていたし、ある面では想像以上だったりする。600ページを超える大著だが、読み始めれば波乱万丈の人生の展開に引っ張られて、ジェットコースターのように最後まで行きつく。

ロックファン必読の好著。
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2011年09月22日

『ある晴れた日に』加藤周一著、岩波現代文庫

カイリー・ミノーグの本はまだ読み終えてないんだけども、ちょっと寄り道して加藤周一の本を読んだ。これは評論ではなく小説。加藤周一は小説も書いているのだなあ。

本作は敗戦まぎわの東京と信州を舞台に、青年医師と周辺の人々の抑圧された日々を描いたもの。そこには、友人の姉や職場の看護婦とのロマンスも挟みこまれている。傑作とは言わないけれど、大いに引き込まれた。

序で渡辺一夫はこう書いている。「何よりもこの作品が太平洋戦争の一記録にもなるという点で、また、近代戦争の銃後に於ける人間性の圧殺に対する抗議証言にもなるという点で、忘れ難い印象を残されている」。戦争の小説というと戦場を描いたものを思い浮かべるが、この作品では銃後の日常が描かれているのだ。そして、そこからは、戦時下であっても、戦時下なりの「日常」が東京にもあったし、信州などにおいては平時とほとんど変わらない「日常」があったということ、しかしその「日常」には人間性を圧殺する厚い雲が垂れ込めていたということなどがわかる。これもまた戦争の現実だろう。1950年に発表された作品なので、著者にはまだ戦争の記憶が明瞭で生々しかったはず。そういう意味で、ここに描かれた空気は、リアルなものに違いない。渡辺一夫が「人間性の圧殺に対する抗議証言」と受け止めていることも、その傍証といえるだろう。

自伝『羊の歌』を読んだときにも感じたが、加藤周一はなかなか隅に置けないところがある。本作はフィクションではあるけれども、主人公が青年医師ということでそこには著者が投影されているといってよいだろう。その青年医師は、知的でカヨワクてメランコリックな女性(友人の姉)の姿に心を奪われたり、肉感的で生活力に溢れる明るい看護婦を海辺で抱いたりする。そういう主人公が女性へ注ぐ耽美的なまなざしに、共感を覚える。
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2011年08月29日

『取り返しのつかないものを、取り返すために 大震災と井上ひさし』大江健三郎、内橋克人、なだいなだ、小森陽一著、岩波ブックレット

2011年4月9日に開催された「憲法のつどい2011 鎌倉」(鎌倉・九条の会主催)の講演内容を収録したもの。会の呼びかけ人の一人で、一年前に亡くなった井上ひさし氏をしのぶとともに、3月の大震災と原発事故のあとの状況を踏まえて、大江健三郎、内橋克人、なだいなだ、小森陽一の各氏が思いを述べている。

内橋克人氏は、「原発安全神話」が国家戦略として徹底的に浸透させられてきた経緯を紹介し、その手法が「原発安全神話」のみならず、改憲やTPPの推進にも用いられると指摘。また、「不安社会」という言葉で、いまの日本のあり方を表現し、日本の進むべき方向を示す。

大江健三郎氏は、井上ひさしとの個人的な交流のエピソードを紹介しつつ、ともに同じ時代を歩んできた作家としての心情を述べており、その深い敬愛の念に心を打たれる。

他の講演については割愛。良書かつ500円と安価なので、興味あるかたはぜひご購入を。
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