2013年03月26日

『火山のふもとで』松家仁之著、新潮社

雑誌「考える人」「芸術新潮」の元編集長が新潮社退社後に発表した作品。小説を読むのはいいものだとしみじみ思わされた。

内容は、都内の設計事務所が夏場の事務所として使っている「夏の家」と呼ばれる軽井沢の別荘での日々を、入所したばかりの若者の視点で描いたもの。所長である老建築家、それを支えるベテラン、中堅、同世代の女性所員といったメンバーのなかで、しだいになじんでいく主人公に感情移入して、ひと夏を軽井沢で過ごしたような気分になれる。女性所員と恋をした気分になれる。建築の世界に足を踏み入れた気分になれる。まあ小説っていうのは、そういうものだよな。

この事務所は、規模こそ小さいが、所長はワールドクラスの建築家で、スタッフたちも優秀。それぞれが独自の建築哲学を持っており、それがちょっとした一言にも現れる。そのあたりの描写がじつに素晴らしく、(本当の建築家がどういうものかは知らないけれども)説得力があって、建築の世界を覗きこむ面白さがある。それぞれの自家用車がボルボだのベンツだのルノーだの、と外車ばかりで、出てくる食事もなじみのないカタカナ食材カタカナ料理。でも、それが別段嫌味な感じがしないのは、世界のなかで仕事をする一流の建築家やその周辺の人々の描写にリアリティがあるからだろうか。

小説のおもな部分は80年代初期のひと夏に焦点を当てているのだが、挿入されるエピソードによって老建築家の生涯全体を振り返る要素もあり、また主人公の「その後」も描かれており、人の生涯すなわち、どのように仕事をするか、どのように人と愛し合うか、どのように生きるか、といったことも考えさせられる。これもまた、良い小説が必ず投げかけてくる問いかもしれないな。
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2013年03月17日

『金曜官邸前抗議 デモの声が政治を変える』野間易通著、河出書房新社

金曜官邸前抗議.jpg

総理官邸前で毎週金曜日に行われている脱原発を求める抗議集会。最初は300人ほどでスタートしたこの活動は、政府が脱原発から離れていくのに反比例するように参加者が増え、2012年6月29日には何万人もの人々が官邸周辺に溢れた。官邸前が人で埋め尽くされるというのは60年安保闘争以来というし、そのような運動の代表者と時の総理が面会した(2012年8月22日)というのも前例のないことだ。それは達成というよりは、主催者の一人ミサオ・レッドウルフ氏が述べるように「通過点に過ぎない」のだが、そのような事象を導いたこの抗議活動が画期的であることは間違いない。本書はこの画期的な抗議活動を支えるスタッフの一人による貴重な記録である。

この集会では、一画にスピーチエリアが設けられ、さまざまな人たちが短いスピーチをするのだが、本書巻末には、その抜粋が掲載されている。集会に参加したことのない方には、ぜひこの部分に目を通してもらいたい。ごく普通の人たちが、やむにやまれぬ思いで参加しているということがわかってもらえると思う。ひとつだけ、大熊町から避難している女性のスピーチをここに引用しておこう。

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福島第一原発の地元、大熊町から避難している。原発から7kmのところに新築して入居できなかった自宅を置いてきた。この1年のあいだに私たちはどれほど振り回され、分断されたか。とてもこの気持ちを言い表せない。怒る元気もない。うちの年間推定放射線量は、99ミリシーベルトです。「100ミリは超えないので安全だ」と言う人がいる。どうぞ我が家を貸します。警戒区域に、国会でも民主党本部でも移して、そこで決めたらいい。
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ところで、このような集会やデモは、果たして効果があるものなのか。著者の野間氏は「実を言えばこの問いは、デモをやっている側も常に自問自答している」という。政治は複雑な要素が絡んで動いていくものだろうから、デモの効果を検証するのは容易なことではないと思う。しかし、少なくともこの官邸前抗議に関しては、効果があったし、これからも影響を及ぼしていくといってよいのではないだろうか。少し長くなるが、それに関する記述を引用しておきたい。

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もし金曜官邸前がなかったら、いまごろもっとたくさんの原発が再稼働されていたはずだ、ということはよく言われる。再稼働を2基にとどめているのは、官邸前にあれだけ人が集まっているからだ、と。
「集まっている人が思っている以上に、官邸前に何万人も毎週来るってことが、ものすごいプレッシャーになっていたことは確かです」
そう断定するのは、小熊英二だ。
「僕は金曜夜はたいていドラム隊と一緒に霞ヶ関を回ってますけど、官僚は気にしてますよ。いやがってます、はっきり言って(笑)。それに敵は一枚岩じゃない。民主党のなかに脱原発派がいるように、経産省だろうが文科省だろうが、あらゆる組織には反主流派がいるんです。反主流派は表だって組織の方針に反することを言えない場合が多いけれど、『こんなに人が来ていますよ、考え直したほうがいいんじゃないですか?』というふうに、院外圧力を借りて政治を動かそうとする。決定が公表済みの政策課題を動かすのは容易ではないですが、まだ水面下で検討中の課題にはけっこう影響する。大飯原発がすぐに止まらなくても、官邸前デモが2012年夏に検討中だった中長期のエネルギー政策に影響したことは明らかです。経団連の意向に反するような政策を公表させたわけですからね。いうなれば、2012年夏の局面に限っていえば、官邸前デモは経団連に勝ったんですよ」
元経産省大臣官房付の古賀茂明もまた、『SIGHT』(53号)のインタビューでこう語っている。
「あんなことやってもただの自己満足じゃないかとか、いろいろ批判している人たちもいますけど、そんなことはなくて、官邸はあれをものすごく気にしているわけですよ。この間(8月22日)も、デモの中心の人たちに、首相が会ったじゃないですか。あれも、ポーズだとか、総理がただ従来の方針を述べただけじゃないかとか言う人もいるけど、会うっていうことが異常ですよ。異例というよりも異常。要するに、官邸前に数を集めれば総理と面会できる、っていう前例を作っちゃったわけですから」
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さて、本書から離れてしまうのだが、菅直人元首相のインタビューが「現代思想」2013年3月号に掲載されている。聞き手は、上に名前の出ている小熊英二氏である。小熊氏は、震災直後の原発事故への政府の対応についても質問していて、それはそれで非常に興味深いのだが、デモの効果についても詳しく訊ねている。一部を引用したい。

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小熊 官邸前の抗議行動は、政権や民主党に対してプレッシャーになったのでしょうか。

 当然影響をあたえていたと思います。理由の一つは、衆議院選挙が迫っていたことです。選挙の実施日程は決まっていませんでしたが、いずれにしても任期満了までは半年余りを残すばかりでした。私はエネルギー環境調査会では、脱原発を選挙で争点化するための民主党の姿勢を決めたいと考えていたのです。脱原発を次の選挙の大きな争点とするべきだということは、私だけでなくかなりの民主党議員が思っていたことです。そういう背景がありましたから、多くの国民の声があがっているという事実は、いろいろな影響をあたえていたと思います。

(中略)

小熊 七月には「さようなら原発1000万人アクション」が主催した代々木公園の集会に17万人が集まりました。また八月には、パブリックコメントと討論型世論調査も行われ、原発ゼロの意見が多数を占めました。
パブリックコメントについては、『世界』2013年1月号の、下村健一内閣参与のインタビューが触れています。それによると、原発ゼロの意見の数以上に、組織の指令で送ってきたと思われる判で押したような文言ではなく、一通一通のコメントがよく考えられた自分の言葉だったことに効果があったという。一人ひとりの真剣さが伝わってきて、チェックする身としても、感じるところが非常に大きかったということです。これは別の担当官僚からも聞いたことでもあります。それらの影響はどのくらいありましたか。

 パブリックコメント、あるいは曽根泰教さんがされた討論型世論調査は、非常に大きな影響力を持ちました。そこに到るまではいろいろな問題があり、とくに公聴会では原発依存度0パーセント、15パーセント、25パーセントという、事前に経産省が設けた選択肢ごとに均等に人を割り振ったことには、強い批判も受けました。こうした問題を徐々に是正しつつ、最終的には8割近い人が原発ゼロを支持することが明らかになったわけです。街頭の運動に合わせて、行政も絡んで中立的に行ったこれらの調査でも、明確な脱原発を望む国民の意識が示されたのは、とても大きな出来事でした。私や多くの民主党議員が、次の総選挙で原発をめぐる問題は大きな争点となるだろうと考え、脱原発を党内議論で強く主張できたのは、こうした結果もあったからです。
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ということだ。声を上げよう。効果はあるんだから。



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2013年03月16日

「ゲキる」

音楽仲間が「ゲキる」という言葉を使っていた。「友達の子がケータイがぜんぜんつながらないってゲキってて〜」云々。文脈からすると、「激怒している」ということなんだと思う。

「激怒する」の途中の文字を略して「激(げき)る」ということか。

言葉は生きている。
posted by kunio at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年03月07日

『アメリカほ本当に「貧困大国」なのか?』冷泉彰彦著、阪急コミュニケーションズ

初めてキンドルでアマゾンから本を購入した。アンドロイドのスマートホンとiPadにキンドルのアプリを入れたのだが、どちらでも読めるし、どっちの端末で開いてもちゃんと、読んでいた箇所が自動的に表示される。おもにスマホのほうで読んだのだけど、スマホで本が読めるというのは、なかなか快適だということもわかった。ただ、モノとして本が手元に存在しないというのは、どこか不安感というか物足りなさというか、そういう感じはある。読んだ本を、「これ面白かったよ」と人に手渡しできないし、ページに折り目を付けたり傍線を引いたり(僕はよくやる)ということもできない。紙の本よりもだいぶ安価なので、さっと読みたい本についてはこれからもキンドルを利用するかもしれないが、これをメインにしようというところまではまだ踏み切れない気がする。

さて、本の内容のほうだが、これはまず堤未果の『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)への反論として書かれている。堤氏が提示してみせた貧困や格差は、米国の一面に過ぎない。格差がある一方、機会均等の確保のために多大な努力がなされている。その両面を見なければ、米国の実相は捉えられない。ということのようだ。ルポというのは、そもそも全体像を示すものではなく、一つの視点に立って現実のある部分を切り取って見せるものだろうから、堤氏のやり方が間違っているとは言えないと思うのだが、米国そのものを知るという意味では、本書のように別の観点にも触れることは必要であろう。

本書では、オバマ大統領にもスポットを当てている。オバマの政策や、ときどきのメッセージなどから、オバマの思想を読み解く。保険制度改革を実現するための奮闘のくだりはエキサイティングといっていい内容。一方、反オバマ的な立場となる草の根保守やティーパーティー運動を支える人々の心情を考察する。このあたりは、非常に興味深く、また説得力があった。米国に長く在住しながらかの国を見つめてきた冷泉氏の真骨頂と思う。

余談になるけれど、オバマについての記述を読みながら感じたことがある。それは米国の大統領にしろ、日本の首相にしろ、国民は国のトップが大胆に力強くなにかをやってくれることを期待しがちだけれど、独裁国家でない以上、トップといえども権力基盤が許容する範囲のことしかできないということだ。トップに立つということは、特定の立場の支持だけでは実現しないわけで、どうしても幅広い、いろいろな立場からの支持が必要で、その複数の支持のうえに微妙なバランスで立つのが、民主国家の指導者の姿だろうと思う。個人的にいくら「これをしたい」という理想があっても、それをしようしたとたん失脚してしまう。そういうものなのではないだろうか。逆に言うと、国民が政治家に何かをしてもらいたければ、その政治家がそれをしても失脚しないだけの、大きな国民的支持を与えるしかないのかもしれない。
posted by kunio at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・文学