2008年08月30日

大泉康雄『「あさま山荘」籠城 無期懲役囚 吉野雅邦ノート』

吉野雅邦は連合赤軍の一員で、あさま山荘に籠城した五人のうちの一人(現在、無期懲役囚として千葉刑務所にいる)。著者の大泉康雄は、吉野の幼馴染で親友、そして小学館で「女性セブン」の編集長なども務めた人間だ。本書は、吉野雅邦がどういう人間で、どういう風に成長し、事件にどう関わって行って、事件のあとどういう考え・気持ちでいるかを、吉野の手紙・ノート、大泉から見た吉野の言動などを通じて迫ろうとするものだ。

じつをいえば、坂口弘の『あさま山荘1972』を読んだ時点で、もう連合赤軍について他の本を読む必要はない、坂口がすべてを語っている、という気持ちになっていた。しかし、この大泉の本は事件に別の角度から光を当てるものになっており、ページをめくりながら新たな興味をかきたてられる思いがした。

その別の角度というのは、簡単にいってしまえば「すぐ外から見た連合赤軍」ということだ。大泉は前記のとおり吉野の親友で、小学校時代から成人に至るまで吉野の身近におり、吉野の恋人・妻でのちに山岳ベースで胎児とともに殺害されることになる金子みちよとも親しかった(山岳ベースから用事で上京してきた金子とも会っている)。組織の内部の人間でもなく、かといってまったくの第三者でもない、連合赤軍のメンバー個人に非常に近しい人間にとって、あの事件がどのように見えたか。

そこから浮かびあがってくるのは、あれが狂人たちによる狂気の沙汰の事件ではなく、ごく普通の若者たちによるものだったということだ。吉野に限っていえば、普通以上に正義感も思いやりもあり、真剣に誠実に生きようとしていた、そのような若者。金子みちよもしかり。結果的には、やったことは狂気の沙汰ではあるが、普通の人間が、少しずつ逸脱していき、結果的にそこまでに至った。言い換えると、誰でもそうなる可能性があったということだ。

組織の外にいた人間ならではの観察の一例として、逮捕前の永田洋子を見たときのエピソードがある。1969年に、羽田空港突入事件で逮捕された吉野の裁判を大泉が傍聴しに行ったときのことだ。裁判を批判するヤジなどで傍聴席が混乱し、革命左派のメンバーと警備員たちとがもみ合いにある。そこで女性が転倒し、ひざに血がにじむ怪我をする。それが永田洋子。すると、革命左派のメンバーから「鬼ババがやられたぞ」と声があがる。永田洋子は警備員に詰め寄り「お前の名を教えろ」と泣き叫びながらくってかかる。そして「叫び、わめき(中略)「ウォー」とまた獣じみた声を上げ、床を転がり回って手足をバタつかせていた」。この一件に大泉は、革命左派には凄い人がいるんだなと思いながらも、この組織に対して不気味さ、うさんくささを覚え、女性同志を「鬼ババ」と呼ぶ神経にも奇異なものを感じたという。

吉野や金子みちよのプライベートの写真も掲載されている。たとえば、上記の羽田空港の件での勾留から保釈になった際の出所パーティのときのもの。穏やかな表情の吉野と金子みちよ。個人宅で催されたそのパーティで、吉野雅邦と金子みちよはジルバ、ワルツ、タンゴなどを踊ったりもしたそうだ。二人が在籍していた横浜国立大学の合唱団で歌っている際の写真もあった。(永田洋子の薬剤師時代の写真もある)

著者が吉野と金子の両者と親しかったことから、本書は二人の関係についての記録という側面もある。二人が交わした手紙や、「ふたりだけのおしゃべり」と名付けられた交換ノートに綴られた文章からは、二人の愛情の深さ、真剣さが伝わってくる。運動に傾倒していく過程において、横浜国大の学内で心中未遂を起こしたこともあったという。ともに生き、ともに死のうとした二人が、山岳ベースにおいて、片方は加害者、片方は被害者という関係になってしまうのだから、やりきれない。

本書には、吉野雅邦の両親や金子みちよの遺族の声も紹介されている。著者が直接聞いたものだ。

『あさま山荘1972』には坂口弘の最大限の努力による、事件の詳細が記録されていたけれど、やはり一人の人間に見えるものは限られている。本書を読んでその印象を持った。事件に関わったそれぞれがそれぞれの記録を残すというのは、大いに意味のあることだといえるだろう。
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2008年08月29日

介助サル

ヤシの実を石で割るフサオマキザル7月28日に放映されたNHKスペシャル「南米の驚異・道具を使うサル」を録画でみた。南米の広い地域に生息するフサオマキザルのうち、ブラジル奥地に住むグループが石でヤシの実を割るのだ。

これはなかなかインパクトのある映像であった。それに適した台の上にヤシの実をセットし、別の場所から持ってきた丸くて手頃な大きさの石を持ち上げ、実を割る。台、実、石という3つのものを組み合わせた道具の使用は、チンパンジーでしか知られてなかったらしいのだが、それをチンパンジーよりずっとヒトから遠縁のフサオマキザルもやる。しかも、その石を持つ習慣によって足や背中の筋肉が鍛えられ、直立二足歩行もしばしば行うようになっている。ヒトが二足歩行をするに至った経緯を示唆するかのようだ。

ところで、この番組でもう一つ驚かされる映像があった。それは、このフサオマキザルを訓練し、体の不自由な人を介助する仕事をさせようという試みが米国でなされているというのだ。車椅子の女性の指示に従い、灯りのスイッチを入れ、冷蔵のドアを開け、なかから食べ物を取り出してテーブルに置き、冷蔵庫のドアを閉め、飲み物をテーブルにセットし、その容器にストローを挿し、食べ物のパックを開け、タオルで女性を顔を拭き、というようなことをサルがスムーズに行っているのだ。これには驚いた。その甲斐甲斐しい働きっぷりは、まるで奴隷のように見えて気の毒なくらいなのだが、人間の指示をここまで理解して実践できるというのは本当にすごいことだと思う。
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性格的・気質的にそれが可能かどうかわからないが、より知能が高いであろうチンパンジーが人間の介助をすることができたとしたら、などと想像するとワクワクするような怖いようななんとも言えない気持ちになる。


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2008年08月23日

連合赤軍・森恒夫と亀井静香

岩波の『世界』9月号の特集「死刑制度を問う」に、かねてより死刑廃止を主張していることで知られる国会議員亀井静香氏のインタビューが掲載されていた。

警察庁出身であり、かつては自民党の大物議員(現在は国民新党)、しかもいかつい顔付き!ということで、その人物が死刑廃止を訴えることについては、ちょっと不思議な感じがしていたのだが、今回のインタビューで彼がなぜ死刑廃止論者なのかが理解できた。その主張に共感も覚えた。

興味のある方は『世界』を読んでいただきたいのだが、亀井氏の意見は次のようにまとめられると思う。
・罪を犯すのは個人の責任ばかりでなく社会・環境の影響もあり、誰でも犯罪者になりうるものだ。それをすべて個人の責任に帰してしまうのは弱肉強食の論理である。
・死刑は犯罪の抑止にならない。死刑執行停止を求める国連決議も採択され、死刑廃止は世界の潮流である。
・死刑により被害者側はいやされるのか。人間には赦(ゆる)すという気持ちもありうる。いまは犯罪者を憎んでいてもやがて赦すという気持ちになれるのではないかという、人間についての洞察力を否定した政治では暗い苦しい世の中となる。

ちらっと親鸞の名前なども出てくるので、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の思想が土台にあるのかもしれない。

それはそうと、このインタビューで連合赤軍の森恒夫の名前が出てくる。そのくだりを引用しておこう。

「簡単にいえば人間は偉そうなことは言えないということです。警察官だったときに連合赤軍の森恒夫を取り調べたこともありますが、かれら極左の暴力活動家にしても、根っからの悪人かといえばそうではない。かれらなりに世の中をよくしたいというところから始まって、武力闘争に至ってしまう。まちがった道だけれども、世のため人のためにと自分の生死を投げ打った、そこにはやはり尊いものがあると思ったのです。人間というのはそういうものではないでしょうか。」(『世界』9月号、亀井静香「強者の論理で人間を抹殺してはならない」p.140より)
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2008年08月22日

吉永小百合著『吉永小百合の街ものがたり』

巻頭のスナップより
吉永小百合がパーソナリティを務めたTBSラジオの旅番組(1997年4月から2004年3月まで)を本にしたもの。現在は後継として「今晩は 吉永小百合です」が放送されている。

番組は聞いたことがないのだが、本のほうは、世界の34の街を取り上げ、その歴史、文化、思い出話などをつづったエッセイとなっている。半分くらいは著者自身が行ったことのある街で、そこでのエピソード、失敗談、おいしい食べ物や飲み物の話などは面白い。また、巻頭に数点のカラー写真、本文中にもいくつかモノクロ写真が掲載されている。いかにも女優という写真もあるのだが、プライベートのスナップもあって面白い。

この本を読んだのにはわけがある。僕が熱烈なサユリストで……というような話ではない。大江健三郎の『河馬に噛まれる』という本の「四万年前のタチアオイ」という小説に吉永小百合と思しき「女優Y.S」という人物が登場するのだ。小説には、日本からの中国訪問団として同行していた女優Y.Sのトルファンの宿でのようす、そして歓待への返礼として女優Y.Sが歌を披露する場面などが描かれている。

『吉永小百合の街ものがたり』にトルファンも取り上げられていることは、ネット上で調べた結果、事前にわかっていた。それで、もしかしたらそこに大江氏の小説で描かれている場面に相当する状況やそのときの心情が書かれているのではないか、また、大江健三郎のことも何か出ているのではないか、と思ってこの本を買ったわけ。

結果は、ちょっと期待外れ。勝手に期待していたのだから、期待外れは失礼か。大江さんのことは、こんなくだりで触れられている。「そんなトルファン、ウルムチへ、私が足を踏み入れたのは、1984年11月のこと。日中文化交流協会の代表団の旅行に参加させていただいたのです。団長は井上靖さんでした。大江健三郎さん、竹西寛子さんなどすばらしい作家の方達ともご一緒できました。」

トルファンの宿にあったブドウ棚やまわりの風景などの様子は、小説と一致していた。小説に描かれている旅行自体は事実であることは確認できたことになる。

じつは、もう一か所、ベルリンについて紹介する文章でも大江さんの名前が登場する。冷戦下の東ベルリンの思い出話から、戦争についての話になり、ベルリン訪問の二年後に広島の被爆者を描いた『愛と死の記録』に出演したということが紹介されているのだが、「この映画は、大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート』の中で紹介された実話をもとにつくられた」というのだ。これは知らなかった。『愛と死の記録』、観てみたい。
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2008年08月17日

本を読む習慣

岩波文庫編集部の編んだ『読書のすすめ』という文庫判の冊子があって、そこに大江健三郎氏が寄稿している(こう書くと、最近のものに聞こえてしまうだろうから、補っておくが、1991年発行のものだ)。そこに、ジャック・マリタンによる「本を読む習慣」についての定義が紹介されている。大江さんはこれをフラナリー・オコナーの本を経由して知ったという。

それはこういうものだ。「本を読むこと、とくに古典を読むことには、無意識的なものもふくめて全人格が参加している。それはひとりの人間の生きる上での習慣ともいえるものだ。科学者にその習慣があり、職人にその習慣があって、かれらの仕事も人格もそれと切りはなしがたく結びついている。本を読む習慣もまた、ひとりひとりのそのようなものとしてある。長い時間をかけ経験をとおして、それは養われる……」

漫然とだが、思い起こすのは、少年時代の自分には確かにそのような「全人格が参加している」といってよい読書の習慣があったなあということ。小学校の高学年から中学時代全体を通じ、学校から帰ってきたら図書館で借りてきた本を取り出して居間に寝転んで読む、没入するかのように読む、それが習慣だったと思う。

それから、そういうたっぷりとゆったりと本を読む習慣がいまの自分にはなくなってしまっているということも思わざるを得ない。いま、自分が「この時間は確実に本を読む」という時間帯はトイレで便器に座っているときくらい。寝る前にも読書をするが、これはしたりしなかったり。ネットは毎日欠かさずみても、本のほうはそうでもないというありさまだ。

いま夏休み中で、親と同じくらい不規則な生活を送っている長男が、深夜から早朝まで数時間にわたってやっているのは、ニコニコ動画を眺めること。ときおり、グフフなどと笑い声を漏らしたりもしているから、ずいぶん楽しいのだろうが、そういう姿を見ていると、彼はついに読書の習慣を持つことなく大人になってしまうのだろうなあ。

情報を処理する装置には、必ず入力(input)と出力(output)があるものだが、それは人間も同じだろうと思う。感覚器官を通じてさまざまな情報を入力することで、話したり書いたり描いたり歌ったり演奏したり踊ったりという出力(広い意味での表現)が行えるのだと思う。その入力のなかで、本を読むということは、かなり大きなものなのじゃないか。たとえば、いまこのブログに書いている文章だって、ひとつには大江さんの文章を読むという入力があってこそのものだ。

だから、本を読むということ、その習慣を身につけるということは、その人の人生にとって大きなプラスの意味があることだと思うのだ。

ところで、アマゾンの作った「キンデル」という電子ブックリーダーに関して、アップルのスティーブ・ジョブズが「考え方そのものが頭っから無理があるんだよ、誰ももう本なんか読まないんだから」と切り捨てたという話がある。

そんな話を聞かされると、人類全体が本を読む習慣を失いつつあるのだろうかなどとも思いたくなる。自分の若いころと今を比べても、我が家の若い世代(息子たち)を見ても、確かにそういうベクトルはあるという気はする。

それでも、やはり自分自身についてはなんとかこの習慣を回復したものだと思う。それが必要だ、というふうにすら思う。
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2008年08月14日

映画『さくらん』

遊郭に売られた一人の少女の成長を通じて描く女郎の世界の華と悲哀。そして愛か。

椎名林檎の音楽がぴったりはまっているし、映像は色鮮やかで美しいし、菅野美穂、木村佳乃、土屋アンナらの濡れ場はなかなかだし、ちょっとだけだが忌野清志郎や庵野秀明なども登場するしで、映画的面白さはそれなりにある。物語にもう少し何かがあるといいんだけどなあ。
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2008年08月11日

保証期間ギリギリセーフ

仕事で使っている19インチの液晶モニターが壊れてしまったので、残念な気持ちと、「これを機会に大きいのに変えられる!24インチとか!」という気持ちとがないまぜなまま、ネットでヨドバシやアマゾンなどの液晶モニターのコーナーを検索しはじめのだが、ふと思いついて保証書を見てみると、ふつうは1年保証だろうという思い込みとは裏腹に、このデル製液晶モニターは3年保証となっていて、その期限が2008年8月15日となっていたので、僕はオヤオヤと喜びと驚きと、巨大モニターに買い替えられないことでちょっとだけガッカリした気持ちで翌日デルに電話したところ、いくつかこちらのモニターの症状の問診ののち「交換品を送ります、無料です」というのでお願いしたら、翌営業日である本日それが届き、無事に交換が終わったので、その旨、ここに記しておくしだいである。
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千里眼の快楽とおののき

論争となっているグーグルマップのストリートビュー。グーグルで地図を表示し、「ストリートビュー」ボタンをクリックして道をクリックすれば、その地点からの景色360度が見られるというサービス。グーグルは、公道から見えるものしか写していないのだから問題ないという主張で、削除要請があればすぐに該当の写真も削除する体制も取っている。だが、プライバシーの侵害だという声も多い。議論はしばらく続くことだろう。

個人的には、いいんじゃないかと思う。神奈川県の僕が住んでいるマンションも写っているし、函館の実家も写っている。新宿、渋谷などのおなじみの景色や人通りも見える。リアルタイムの映像ではないとはいえ、離れた場所の光景がいながらにして見られるというのは、自分の視覚が極端に拡張・延長されたようで、まさに千里眼の気分。それと同時に、ここまで見えていいのだろうかという一抹の不安を覚えるのも事実なのだが。

ただ、写真の数は膨大だし、写真に写っている内容を人名などで検索できるわけでもないし、顔についてはボカシを入れる処理がなされているそうだし(完全ではないようだが)、現実的にはプライバシーの侵害による実害が生じるケースは少ないんじゃないかという気もする。思いつくのは、たまたま誰かが発見したマズイ場面(たとえば、知っている人が見れば誰だかわかる風貌の人物が立ち小便をしているような写真)が、オープンな掲示板などでさらされてしまうというケースなどか。

ストリートビューが面白いことは誰しも認めることだと思う。そして、このようなことを実現する力と実行してしまう勇気(蛮勇?)を兼ね備えているのがグーグルぐらいだということも言えるのではないか。グーグルは、「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」が使命であるという。これを見ると、上記の蛮勇が、一種の原理主義によるものだということも言えるのではないか。面白い会社だ。
posted by kunio at 14:34| Comment(2) | TrackBack(0) | PCとネット